継体大王(けいたいおおきみ・天皇)
この時代の大豪族王、大伴氏(御門・臣王)や物部(もののべ)氏(御門・臣王)の祖先は、神話における「**の命(**のミコト)を基にする」と創作され、半島からの渡来の事実を消して、天皇家と同様「祖先に神をいただく」と言う事に成っていた。
継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の前の大王(天皇)、武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)・葛城朝)に子供が無い為、皇統を繋ぐ必要から、越前(福井県)にいた応神大王(おおじんおおきみ/第十五代天皇)の五代(五世)孫に当たる男大迹王(おおどのきみ)に擁立のお鉢が回ってきて、継体大王(おおきみ・天皇)は即位したのである。
この継体(けいたい)大王(おおきみ・天皇)の即位だが、ある疑いが囁かれている。
学者の説によっては、国内(越前)王族説を採らず、即位の為に任那からやって来た加那系・任那(みまな)の王族で、妻子が在りながら、先々代の大王(天皇)、仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の娘・手白髪姫(たしらがひめ)を皇后に迎える「政略結婚をした。」と成っている。
つまり、継体大王(けいたいおおきみ)が百済系任那(加那)から即位の為に招かれたのであれば、その後の継体大王(けいたいおおきみ)の対半島政策の行動に納得が行くのである。
継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)は、即位後二十年の歳月を掛け漸く大倭(後の大和国)の地に都を置く。
この二十年を費やす背景に、継体大王(けいたいおおきみ)の出自の不確かさが見え隠れしている。
都を置いた事で、漸くその地位が「不動のものに成った」と見え、その直後に継体大王(けいたいおおきみ)は半島の国・新羅に攻められた百済の救援に軍を送ったが、新羅と結んだ筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)により九州北部で「磐井の乱」が勃発し、その平定に苦心して百済の救援軍派遣にも苦労している。
日本書紀では筑紫君磐井(つくしのきみいわい)を反乱軍の扱いだが、実は大王(おおきみ)の権威が日本書紀の記述ほど当時は無かった可能性が考えられる。
当時半島において新羅は、任那と百済に取って共通の敵・侵略国家だった。
そして列島に移植した任那と百済の王族達とその部族は、当然ながら故国の盛衰に一喜一憂していた筈である。
【継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)と大連(おおむらじ)大伴金村(おおとものかなむら)】へ続く。
詳しくは小論・【継体大王(けいたいおおきみ・天皇)即位のある疑い。】を参照下さい。
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皇統と鵺の影人
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