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久坂玄瑞(くさかげんずい)

久坂玄瑞(くさかげんずい)は、家禄・二十五俵の長州藩(萩藩)下士で萩藩医・久坂良迪(りょうてき)、富子の三男・秀三郎として生まれる。

秀三郎(玄瑞)は、高杉晋作も通っていた城下の私塾・吉松塾で幼少の頃から四書の素読を受けた。

ついで秀三郎(玄瑞)は、藩の医学所・好生館に入学したが、十四歳の夏に母を亡くし、翌年には秀才の誉れ高い兄・久坂玄機(くさかげんき)が三十五歳で病没した。

兄・玄機(げんき)は、蘭学者・医者として知られる緒方洪庵の適塾塾頭を務めるほど有能で知られていた。

そして、兄・玄機(げんき)病没の僅か数日後に父・良迪(りょうてき)も亡くし、二男は早世していたので十五歳の春に秀三郎(玄瑞)は家族全てを失った。

こうして秀三郎(玄瑞)は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞(げんずい)と改めた。

そして十六歳になった頃には、早くも玄瑞(げんずい)の秀才の英名は萩城下の内外に知れ渡っていた。


長州藩々校明倫館に入って医学および洋書を学んだ後、吉田松陰 (よしだしょういん)の名声を耳にして松下村塾(しょうかそんじゅく)に十七歳で入塾、村塾の三秀(久坂玄瑞、高杉晋作吉田稔麿)の一人と言われた。

久坂玄瑞が余程優秀だったのか、吉田松陰は長州第一の俊才であると認め自分の末の妹・杉文(すぎふみ・あや)と娶(めあわ/結婚)わせている。

久坂玄瑞は、安政の大獄によって義兄の吉田松陰が刑死すると、長州藩における過激な尊皇攘夷派の中心人物と成って行く。

八月十八日の変(七卿落ち)」と名付けられた朝廷政変で京を落ちる尊皇攘夷派の公卿の三条実美(さんじょうさねとみ)・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉ら七人の公卿を長州に同行したのも久坂玄瑞(くさかげんずい)で、倒幕派の公家・三条実美(さんじょうさねとみ)、姉小路公知らとは、久坂玄瑞は、その尊皇攘夷運動を通じて七卿落ち以前から旧知の中だった。

そして久坂玄瑞は、問題の周防国・田布施に七人の公卿を密かに案内し、ある計画の存在を三条実美(さんじょうさねとみ)卿らに告げている。

元治元年に入ると、来島又兵衛、久坂玄瑞(くさかげんずい)等に拠って孝明天皇を再び長州陣営のものとする為、京都に乗り込もうとする積極策が長州で論じられ、それに反対及び慎重派の桂小五郎や高杉晋作などと対立、長州藩内も藩論が割れていた。

千八百六十四年(元治元年)の初夏の頃、池田屋事件新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされ、来島又兵衛、久坂玄瑞(くさかげんずい)等積極派が勢い付き、慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努め、高杉晋作は京都進発を主張する急進派の来島又兵衛を説得するが容れられず脱藩して京都へ潜伏する。

この時の積極的に上洛を説いた来島又兵衛、久坂玄瑞は、積極派の福原越後や益田右衛門介、国司信濃の三家老などの積極派と連携、薩賊会奸を掲げて挙兵し、益田、久坂玄瑞らは山崎天王山、宝山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。

この事変で薩摩藩西郷隆盛らが取った中立の方針は、長州や幕府のいずれかが朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも中立の立場に導いたのであるが、長州勢からは来島又兵衛・久坂玄瑞・真木和泉ら多く犠牲者が出て、長州の薩摩嫌いを助長し、「薩賊会奸」の思いが強くなった。

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by mmcjiyodan | 2008-04-29 14:21  

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