享保の改革(きょうほうのかいかく)
最初は新井白石の千七百九年~十六年の「正徳の治」で、朱子学を重んじる「文治主義」が役職者の乱発で失敗し、幕府財政が極端に逼迫(ひっぱく)する。
「文治主義政策」とは官僚に拠る統治運営策で、官僚の権限が増すと同時にその人数が膨大に成る為、「官僚人件費の負担が増大する」と言うまるで近頃どこかで聞いた財政食いつくしの「天下りシステム」のような状況だった。
「正徳の治」に拠り幕府財政が逼迫(ひっぱく)した為、八代将軍・徳川吉宗による「享保の改革(きょうほうのかいかく)」に移行し、千七百十六年~四十五年の享保の改革は新田の開発・目安箱・公事方御定書制(幕府の改革新法)などを行い、江戸期で唯一改革が成功する。
八代将軍吉宗による「享保の改革」が唯一成功した訳は、本書で吉宗将軍就任の事の次第の真相を述べている通り、一見内部改革に見える「享保の改革」の改革は、実質的にリーダーとその一派が外部から幕府中枢に乗り込んで来て既得権益を駆逐して初めて成し遂げた革命だった。
千七百六十七年~八十六年の「田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治」では商業の発展に力を入れたが、賄賂をさかんにさせる結果になった。
何やらこの田沼時代、現代のどこぞの政権の「IT企業だの、何とかファンド、偽装に条例違犯、儲けさえすれば手段は構わない」と言う風潮を増長させた「規制緩和」と言う名の「平成の失政によく似ている」と思うが、いかがか?
千七百八十七年~九十三年の松平定信による「寛政の改革」では、「質素倹約と寛政異学の禁止(朱子学以外は禁止)を進めた大変厳しい改革をしたが失敗する。
千七百四十一年~四十四年の老中水野忠邦天保の改革では、株仲間の解散や人返し令を行うが、失敗している。
つまり、いずれも庶民に負担を掛ける改革は結果的に失敗している。
まぁ、他の改革と唯一成功した八代将軍・吉宗の「享保の改革」との根本的な違いは、庶民を安心させる事に心を砕いた施策で在ったかどうかで、役人や政治家は上から目線で庶民から絞り取ろうとするのは「持っての外」で、痛みを伴うのが役人や政治家からでは無いから失敗するのである。
政権維持が目的だったから、徴税を強化し結果的に庶民の力を削いでしまったのだ。
徳川吉宗は大奥のリストラに飛び切りの美女を選ばせ、「美女なら生きる立つ瀬もあるだろう。」と優先的に暇(いとま)を出した逸話が残っている。
この伝で行けば、国家公務員上級試験に合格し国政事務を経験した天下の逸材が「再就職に困るから天下り先を用意する。」は、庶民感覚から言えばとんでもない心得違いの言い分である。
過去に民力を削いで成功した政治改革は無い。
国家経済力の基礎は民衆の経済力で、民が貧しい国は、強権政治以外に成り立たない。
まず庶民の「生活の安定」を心掛けた徳川吉宗の改革だけが、唯一成功した事例である。
つまり、田沼政治や現代の小泉改革のように一部に富が偏る強権政治は、間違いなく恨みだけが残る政治手法である。
実は、水戸黄門万遊記や徳川吉宗のドラマの大衆受けについて、我輩には日本人の歪みとずるさを感じる。
他国の、庶民が変身するヒーロー物と違う所は、このヒーロー、「実は偉い人(身分が高い)だった」と言う所である。
つまり、相手が偉い人(身分が高い)であればヘイヘイし、偉くなければ虫けら扱いする「氏族文化」が浸透し、現代でもこの身分が高い者が根拠も無く威張っても「仕方が無い」と許容する傾向は顕著に表れている。
それでいてずるい事に、自分達の不満や苦しみは自分(民衆)では解決しようとせず、「誰か偉い人が解決して助けてくれる」と言う有りもしない事に夢を掛けて、行動は起こさないのが日本の民衆である。
【徳川吉宗(とくがわよしむね)と享保の改革の手足】に続く。
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未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2008-04-29 14:39