北畠親房(きたばたけちかふさ)
親房(ちかふさ)は南北朝期に生きた公家で、息子の北畠顕家 (きたばたけあきいえ)と共に南朝後醍醐天皇にお味方して活躍した公家で在りながら武門として活躍した武将でも在った。
後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の意志に、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に尊雲法親王として入っていた第一皇子・大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりながしんのう)が、父帝の為に比叡山を降りる決意をする。
還俗した護良親王(もりながしんのう)は、北畠親房の娘(名は立花姫)を娶り妃とした。
つまり、北畠親房(きたばたけちかふさ)は護良親王(もりながしんのう)の義父に当たり、北畠顕家 (きたばたけあきいえ)が義兄弟にあたる。
この北畠親子や名和長年(なわながとし)、足利尊氏、新田義貞(にったよしさだ)、楠木正成(くすのきまさしげ)、赤松則村(あかまつのりむら/円心)などが各地に蜂起して鎌倉幕府最後の執権・北条守時(ほうじょう もりとき)を自刃に追い込み倒幕は成功する。
この大乱を元弘の乱(げんこうのらん)と呼ぶ。
建武の新政(親政)は成ったが、僅か二年で足利尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえして蜂起する。
・・・・この時、後醍醐天皇に忠誠を誓っていた新田義貞や北畠顕家が、天皇の命により足利尊氏討伐に立ち上がる。
後醍醐天皇に与力したのは仏教界だけではない。
渡会(わたらい)氏は伊勢神宮の外宮の世襲神官の家柄である。
鎌倉時代末期の渡会家行(わたらいいえゆき)は、伊勢神道の大成者で、後宇多天皇、後醍醐天皇親子に自書の神道思想を表した書物を叡覧に供された事や、北畠親房との親交から神領民を蔵人所の「供御人」として組織し、北畠軍の中核として、一貫して南朝方に加担した。
この時代、彼らの行動を突き動かしていたのは、使命感である。
厳密に言うと、これは征服者氏族の使命感で今の感覚ではとても理解はし難い。
肝心なのは、「皇統に自分の氏族がどう絡むか」と言う事だった。
言わば血の論理である。
この血の論理が、後の昭和二十年の敗戦まで続く。
いや、まかり間違うと、形を変えて今(現代)でも続いているのかも知れない。
【義良親王(のりながしんのう/後の南朝・後村上天皇)】に続く。
参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。
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皇統と鵺の影人
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