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桓武天皇(かんむてんのう)

我が国には、没してなお即位以来千二百年を超える現在まで、この国の歴史に影響を及ぼし続ける偉大な天皇が居た。

永い日本史の場面場面を切り取ると、そこにはたった一人の恐るべき天皇の意志が働いていたのだ。

この国の行方を決定付けるほどの始まりを為し、今なお多くの歴史的事象に影響を及ぼし続ける偉大な天皇の名は、第五十代天皇・桓武(かんむ)である。

桓武天皇(かんむてんのう)は、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の第七皇子・施基親王(志貴皇子)の第六子・白壁王(後の光仁天皇/こうにんてんのう・第四十九代)の第一王子として七百三十七年(天平九年)に産まれ、山部親王(やまべしんのう)と称された。

山部親王(やまべしんのう)の生母は朝鮮半島・百済(くだら/ペクチョ)の武寧王を祖とする王族の末裔とされる和氏(やまとうじ)出身の高野新笠(たかののにいがさ)とされる。

山部親王(やまべしんのう/後の桓武天皇)は生母・高野新笠(たかののにいがさ)の出自が身分の低い帰化系氏族で在った為に、当初は官僚としての出世が望まれて大学頭や侍従に任じられた。

父・白壁王の光仁天皇即位後は、山部親王(やまべしんのう/後の桓武第五十代天皇)も親王宣下とともに四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かった為に立太子は予想されていなかった。

しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、突如異母弟の皇太子・他戸親王の母である皇后井上内親王と他戸親王が相次いで廃された為に、山部親王(やまべしんのう/後の桓武天皇)は皇太子とされた。

山部王(後の桓武天皇)は、七百八十一年(天応元年)に父・光仁天皇から譲位されて天皇位に就き、翌日には早くも同母弟の早良親王(さわらしんのう)を皇太子とした。

七百八十一年(天応元年)、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)が平城京(へいじょうきょう)にて即位する。

桓武天皇(かんむてんのう)は、平城京(へいじょうきょう)時代の旧勢力や勢力を持って治世に影響力を為す寺社を引き剥がす為に、即位三年後に早くも長岡京(ながおかきょう)の遷都を実行する。

聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)、その娘・孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)が仏教に熱心に帰依して仏教を国家統治の中心に置いていた。

聖武・孝謙の二代の大王(おおきみ/天皇)は、僧正・良弁(ろうべん)に東大寺(とうだいじ)と大仏殿(だいぶつでん)を創建させ、大乗仏教僧・行基(ぎょうき)を大僧正として迎える。

更に中国から鑑真(がんじん/鑑真和上)を招いて唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建し、戒壇を設置した。

この奈良・平城京(へいじょうきょう)時代の仏教勢力が、強い勢力を持って治世に影響力を為すに成長していた。

その旧仏教勢力を治世から引き剥がす為に、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)は即位三年後に長岡京(ながおかきょう)の遷都を実行する。

更に桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)は、天武天皇(てんむてんのう/第四十代)やその後の聖武孝謙の二代の天皇以来の従来の仏教勢力を弱める為に腐心する。

ちょうど中国修行から帰国した弘法大師(こうぼうだいし/空海)伝教大師(でんぎょうだいし/最澄)支援して自らが関与する仏教組織である真言宗天台宗を創設した。


桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)は、日本(大和の国)の歴史上最強の権力を行使した天皇で、後にも先にもこれほど強力な天皇は類を見なかった。

日本史に於ける史上最強の天皇・桓武天皇(第五十代)は、その在位中にあらゆる点で強烈な指導力を発揮し、以後の日本(大和の国)と言う国に「あらゆる影響を残した」と言って良い。

桓武天皇はその即位後、長岡京 (ながおかきょう)へ遷都(七百八十四年)するが、既にその後の十年で成し遂げる大計画を立てていた。

桓武天皇はその治政に二つの国家大目標をたてるが、ひとつは七百八十九年に始まる千年の都平安京(へいあんきょう)の造営で、もう一つは朝廷にまつろわぬ民・東北蝦夷(エミシ)征伐である。

この桓武天皇に拠る平安京(へいあんきょう)への遷都には、方位学を始めとする「陰陽寮」の占術呪詛知識の結集が力を発揮している。

また、この時代まで下がると、朝廷が管理する蝦夷のエリアも広範囲に渡り、鎮守を中心とした朝廷側の入植地や鎮守府の政治拠点を置いてはいたが、被征服者側の抵抗は時折発生していた。

そして東北には、未だ朝廷方の手の内に入らない土地も存在した。

七百八十六年(延暦五年)桓武天皇は、野望を適えるべく「蝦夷征伐」の動員令を発令し、二年間で東海・東山・板東の残存蝦夷勢力を平定、東北平定の準備を始める。

桓武天皇は、歴代大王・天皇の中でも最も強烈に好戦的な指導者である。

彼のその強烈に好戦的な個性が、この国の「本州以南をほぼ統一国家にさせた」と言って過言ではない。

征服王としては、この国の歴史に偉大な足跡を残したが、征服される側にとっては、恐ろしい阿修羅のごとき相手である。

渡来氏族に、鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)と呼ばれた蝦夷(エミシ)族にしてみれば、ヤマト王権の桓武天皇こそ鬼そのものだった。

そしてその手先が、征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)や征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)だった。


そして桓武天皇(かんむてんのう・第五十代)は、古事記日本書紀の編纂事業にも手を着け始めている。

古事記・日本書紀の大きな編纂目的に、桓武天皇(かんむてんのう・第五十代)の意志である「天皇(大王/おおきみ)の正当性」を殊更強調する為の「思惑が在っての事」と言う割引をして掛からない事には、古事記・日本書紀の記述内容を鵜呑みには受け取れない。

遷都事業に手をつけた桓武天皇は、次は東北の蝦夷征伐と、七百八十八年(延暦七年)七月紀古佐美(きのこさみ)を征夷将軍に任命、七百八十九年(延暦八年)兵員、五万三千人 を集めて、東海・東山・板東から奥州に大軍を送り、東北に進行を開始する。

蝦夷(エミシ)が反乱を起こしたからその征伐に出掛けるのではなく、侵攻の最終目標は蝦夷(エミシ)の国・日高見国征服で、何年間も兵たんの準備をして何万もの軍勢でもっての侵攻作戦を立てている国家意志による侵略戦争である。

天智大王(てんちおおきみ/三十八代天皇)が統治の手段として、密かに役小角(えんのおずぬ)を登用、非公式に陰陽修験組織を設置した。

小角(おずぬ)の陰陽修験組織に、天智大王(てんちおおきみ)は統一国家としての共通認識と信仰心を醸成させる秘密警察兼情報工作機関として活動をさせて居た。

その秘密警察兼情報工作機関を、桓武天皇(かんむてんのう)は正式に天皇と直結する行政の中枢である中務省に「陰陽寮」として設置して活用した。

古事記日本書紀に於けるエロチックな神話から人身御供伝説まで、桓武帝修験道師を使ってまで仕掛け、「性におおらかな庶民意識」を創り上げた背景の理由は簡単な事で、為政者にとって見れば搾取する相手は多いほど良いのである。

桓武天皇のヒタカミ(日高見国)蝦夷の役】に続く。
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by mmcjiyodan | 2008-04-29 19:37  

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