桶狭間合戦(おけはざまかっせん)
信長は丸根砦、鷲津砦を捨て駒にして今川の油断を誘ったのだが、味方を「捨て駒にする」などと、家臣に口に出しては言えない。
沈黙を守って寝たふりをする。
この時点で、義元の耳に入るのは連戦連勝の戦勝報告で有る。
大軍に臆したのか、どうやら信長は清洲城に籠もって味方の砦を見捨てている。
「織田勢恐れるに足りず」今川全軍の緊張も次第に緩んでくる。
西進する義元の本隊が桶狭間(田楽狭間)に差し掛かる頃、突如視界が悪くなる程の豪雨が降り、行軍を止めて休息する事になった。
一方、丸根砦、鷲津砦の陥落、今川軍の清洲接近の報を聞いても動かなかった信長は、清洲城内に在って横になって居た。
信長は、明け方に突如陣ぶれを発して、僅(わず)かな従者のみを連れて軽装備の「当世具足」で居城の清洲城を出立する。
出陣に間に合ったのは、旗本親衛隊(馬廻組)の僅かな手勢だけで、兵力は少ないが、動きは機敏だった。
出立した信長は熱田に到着、軍装備もそこそこに、慌てて追いかけた軍勢(旗本親衛隊二百騎その他)を集結させて熱田神社に戦勝祈願を行い、今川軍の迎撃に出発した。
信長にしてみれば、家臣がこの期に及んで甲冑などの重軍装に拘る様では機動力を失い、動員出来る二千を動かしては到底不意打ちなど出来ない。
双方対陣しての合戦なら兵を集結させるのが筋だが、これは源義経ばりの奇襲戦で、二千の兵はそれでも多過ぎて足手まといである。
信長は、源義経が為した一ノ谷(城戸の戦い)の奇策「ひよどり越えの逆落とし」の古事を思い描いていた。
大軍相手でも、「一ノ谷の戦い」の様に相手の隙を突く油断に乗じた奇襲であれば二百騎もあれば充分じゃ。
この桶狭間の合戦に於いて、天才・織田信長は自他の兵力の差などは関係なく勝ちに行った。
信長は、はなから二百騎の旗本親衛隊(馬廻組)だけで決着を着ける積りでいた。
まず、信長は善照寺砦に入り、物見の報告を待つ。
やがて桶狭間の方面に今川軍の存在を察知し、東南への進軍を開始しする。
付き従う旗本親衛隊(小姓組・馬廻組)の顔ぶれは、滝川一益、前田利家、服部小平太、毛利新助ら、信長が織田家の当主に成った十九歳の時から共に遊び学んで育てた面々である。
信長親衛隊(小姓組・馬廻組)の進軍に、他の織田勢が続々合流を始めて、漸く今川迎撃の機運が高まっていた。
実は、桶狭間とも田楽狭間とも言われるこの合戦の実際の場所は、四百五十年を経た現在でも諸説あって特定されていない。
つまり、織田信長の急襲隊が、休息を取っていた義元の本陣と、特定出来ないその付近で遭遇した事になる。
【第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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