織田信包(おだのぶかね)
母は兄・信長と同腹の土田御前で、お市の方(秀子)も同腹と伺える。
織田家臣団の中では信長も認める有能な武将で、唯一織田一族の重鎮として各地を転戦し厚遇されている。
信包(のぶかね)は兄・信長に対して一定の発言力もあり、浅井長政の近江・小谷城を包囲、浅井長政の自害により妹・お市の方(おいちのかた)と長政忘れ形見の茶々、初、於江与の三姉妹を引き取り手元に保護している。
織田信包(おだのぶかね)は北伊勢(三重県)の支配を目論む兄・信長の命で北伊勢を支配していた藤原南家出自・鎌倉有力御家人・工藤祐経(くどうすけつね)の三男・祐政(すけまさ)を始祖とする長野(工藤)氏の養子として入り、長野(工藤)氏の第十七代当主となって一時長野姓を名乗ったが、同じ兄の命で長野氏を見限り織田姓に復帰している。
その後千五百七十五年(天正三年)の越前一向一揆や千五百七十七年(天正五年)の雑賀党攻めに参戦している。
千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変の時点では兄・信長の長男・織田信忠の補佐を任されていたのだが、兄・信長も信忠も討ち死に失っている。
本能寺の変の後に明智光秀と羽柴秀吉(後に豊臣秀吉)が雌雄を決した山崎の合戦に、織田信包(おだのぶかね)は羽柴方に付き、豊臣秀頼・大阪方西軍の石田三成と東軍の徳川家康の合戦、関ヶ原の戦いに際しては西軍に属して戦っている。
信包は関ヶ原敗戦後も家康の温情で罪を問われず、その後も信包は秀吉の嫡男・豊臣秀頼を補佐し続けたが、千六百十四年(慶長十九年)大坂冬の陣直前に豊臣家滅亡を見る事無く大坂城内で急死した。
大乱の戦国期(安土桃山)に在って、しかも織田信長の弟でありながら討たれたり断罪されたりする事無く、七十二歳と言う当時としては長寿を全うした所に、織田信包(おだのぶかね)の「細く永く」と言う誠実無欲な人柄を感じる。
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