大海人皇子(おおあまのみこ)
しかし一年後、天智大王・弟の大海人皇子(おおあまのみこ)の反乱「壬申(じんしん)の乱」が起きて合戦となり、大海人皇子の勝利、弘文天皇(第三十九代後世追認天皇)の自害で、乱は幕を閉じる。
大海人皇子(おおあまのみこ)は、甥の弘文天皇(追認皇位)を殺して、帝位に付き、天武天皇(てんむてんのう/第四十代)を名乗った事に成るが、この交代劇、様々な異説がある。
最たるものは、ここで「皇統が一旦途絶えた」とする説である。
その説によると、皇統外の天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の「革命」が成功し、皇統の系図を書き換えて、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の弟に納まり、第四十代天皇を継いだと言う「疑惑」である。
この異説の根拠を挙げておく。
まず、天智大王、天武天皇、弘文追認天皇の兄弟、叔父甥の年齢の絡みが、一致しない。
計算によって天武天皇は、天智大王の四歳年上の「弟」に成るそうだ。
大海人皇子(天武天皇・てんむてんのう/第四十代)が、もろもろの文献に突然登場する事にも、疑問を投げかけられている。
大海人皇子の幼い頃の事が、どこにも書いて無いのだ。
皇子としての皇統の名に、「大海人(おおあま)」の使用例が無いのである。
また、兄弟にもかかわらず、天智大王の娘を、四人までも天武天皇が妃として皇子時代にもらっている。
これは近親婚の多い朝廷にあっても一人くらいは考えられるが、大概はどちらか一方が違う親の、異父または異母兄弟である。
同じ父、同じ母を持つ「兄の娘四人」は当時としても異常で、まるで血縁の薄い有力豪族を抑える為の「政略婚」の様である。
【大海人皇子(おおあまのみこ)の疑惑】へ続く
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皇統と鵺の影人
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