右脳と左脳
性本能は「理性で押さえ込めば良い」と言う安易な考え方は、そもそも「偏向傾向」の【建前】に傾倒した【左脳】的な考え方で、複雑に発達した脳を持つ人間の人間性を否定するものである。
人間の脳は、大別すると左右二つに分かれていて【右脳】は本能的無意識能力系統を司る役割で「無意識脳」と言われ、イメージ記憶・直感・ひらめき・芸術性・創造性・瞬間記憶・潜在意識・リラックス本能などの活動の機能をしている。
そうした意味で【右脳系】の職業人は、性に対しては開放的で奔放な心理の持ち主が多数であっても不思議は無いのである。
基本的に、恋も愛も情も「無意識脳」的な【右脳系】の感性で、【左脳系】の理性や計算が入るのは本当の意味で恋や愛情ではない。
ちなみに、脳内で生産される脳内麻薬のベーターエンドルフィン(快感ホルモン)は、【右脳】の活動が活性化する事で生成されるのである。
それに対し【左脳】は理性的意識能力系統を司る役割で「意識脳」と言われ、言語認識・論理的思考・計算・じっくり記憶・顕在意識・ストレス本能などの活動を機能をしているのだが、【左脳系】はその理性的意識から絶えずストレスに晒されているにも関わらず性に対しては禁欲的で、返って暴発の危険を抱えて生きている。
人間を含む生物の機能は便利に発達していて、脳に拠る状況感知により必要な時にはその状態に対応したホルモン物質を生成して送り出し、自らをコントロールする。
そこら辺りを熟知して、利口に応用するか無知のまま何もしないかで、長い人生々活に結構な差が付くかも知れない。
これはその脳の能力とホルモン物質の話である。
また、人間の発想は、理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)どちらかが基で、「無意識脳」と言われる「右脳域の観念」か、理性的意識能力系統を司るとされる「意識脳」の「左脳域の計算」のどちらかが働いて答えを出す。
つまり恋愛は、「理性の左脳域」でするものか「感性の右脳域」でするものなのかさえも定説は無く、とどの詰まりはケースバイケースであり、同様に日本史に混在する「文化としての歴史の虚」と「現実の歴史の実」は、そうした人間の「左脳域と右脳域」の働きとリンクしている。
人類は他の動物と著しく違う発達した脳を持つ事で進化を続け、文明を築いて来た。
その発達した脳とは、右脳と左脳が役割を分担して相乗的に進化したものである。
二足歩行を始めた発達初期の頃の人類に於いては、右脳域の感性は「危険察知の為の想像力に始まった」と考えられ、事前に想像する事で「少しでも危険を回避出来れば」と右脳は徐々に発達して行った。
そうした過程の中で、右脳域の感性は五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を発達させ、それらを組み合わせた信仰・空想・絵画・音楽・映像・文学などの感性を社会生活の中に構築した。
つまり歴史的に文化と呼ばれるものは、「右脳域の感性が働いた結果具現化された」と考えれば良い。
同時に、右脳域の感性とはまったく正反対の左脳域の理性と計算が、その空想的想像力の危な気な部分を現実的に処理する為の補完機能として右脳を発達させた。
誤解して貰っては困るが、脳の思考が右脳域の感性と左脳域の理性に役割が分担されていても、現実問題として人間はその両方を一度に働かせて居て、つまり世に言う右脳人間・左脳人間などと言う極端な者は存在しない。
つまり右脳派人間や左脳派人間の括(くく)りは、結論の主体をどちらに置いて主張行動するかの性格的な問題で、脳その物が偏って働いている訳ではない。
解説すると、通常人間の思考は常に右脳域の感性と左脳域の理性のどちらかの思考を主体にするかの選択をして居て、芸術関係の右脳域の感性を主体にした思考の中にも左脳域の理性が混在しているのが通常の事である。
右脳域の感性と左脳域理性は思考の中で混在する物だが、肝心な事は、視点を何処に置いて思考をするかで論点は変わり、人間の主張や行動が実は右脳域の思考で初めてか左脳域の思考で初めてかでまったく違う結論を得るからである。
つまり人間の思考結果は単純に右か左かではないのだが、但し一瞬の行動の中には右脳域の感性のみが働く瞬間が在り、それこそが後先を考えない右脳域の感情の発露と言う事に成る。
結論から言うと、右脳と左脳が相乗的に発達して現在の人類が在るのだが、複雑に成り過ぎた部分も在り、一つの物事を右脳で感じ採るか左脳で計算するかで結論が変わって来る。
しかも、もっと困った事に、基点を右脳域の感性に置いて始めた思考に左脳域の計算が加わったり、基点を左脳域の計算に置いて始めた思考に右脳域の感性が加わったりと一筋縄では行かないのが人類の思考回路である。
その複雑な思考回路の人類と言う存在を前提とせず、その時々に都合の良い発想を選択して解決しようとする事が、様々な矛盾を成立させているのである。
そして困った事に、何事にも簡単に決着したい人々が「私は左脳人間、私は右脳人間」と決めたがるが、実はそんなに簡単なものでは無く、普段「左脳・右脳」のどちらかの傾向が強い方でも、弱い方の脳域で思考した事を都合良く判断に使う複雑さを持ち合わせているのが人間である。
人間が進化の過程で、手で物を作るように成って左右どちらかが利き腕に成ったのだが、人類の九割が右腕が利き腕に成って行った過程が左脳の発達をうながし、左脳域の理性と計算が人類の武器となった。
つまり左脳域の理性と計算は、右手が利き腕として左脳でコントロールする事から知能的刺激として発達し、その段階から人間の脳は「理性と計算の左脳」と「感性の右脳」に役割が分かれて行ったのである。
その左脳と右脳の感じ方の問題にしても、実は左脳だけでも深い浅いが在り、当然右脳にも深い浅いが在る。
例えば左脳域の理性と計算の捉え方に於いても、目先の単純な損得もあれば、「こうしたらどう言う計算になる」と先の先の結果を深読みした損得も在り、同じ損得でも採用する手段の答えは正反対になる場合もある。
右脳の感性に於いても、目先単純な感情の発露もあれば右脳の感性に左脳域の理性と計算を付加した重層的なアプローチも存在するので、「左脳と右脳」と言っても答えは幾つもあるのに一つの答えを絶対視するから、進歩しない人間は一生進歩しない。
絶えず思考して脳に刺激を与える事は、それ自体が人生に於いて有意義なもので、何かの事象に対して「自分には関わりが無い問題だ」と思考から切り捨てた時から、その分野の脳細胞の接続を失って行き無知が進行する。
つまり「左脳域」と「右脳域」のどちらかで出した答えに「絶対性」は無く、どちらも正解と言えたりどちらも不正解と言える場合もある。
人間の発想は、理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)のどちらかが基で、「無意識脳」と言われる「右脳域の観念」か、理性的意識能力系統を司るとされる「意識脳」の「左脳域の計算」のどちらかが働いて答えを出す。
つまり恋愛は、「理性の左脳域」でするものか「感性の右脳域」でするものなのかさえも定説は無く、とどの詰まりはケースバイケースであり、同様に日本史に混在する「文化としての歴史の虚」と「現実の歴史の実」は、そうした人間の「左脳域と右脳域」の働きとリンクしている。
そして困った事に、何事にも簡単に決着したい人々が「私は左脳人間、私は右脳人間」と決めたがるが、実はそんなに簡単なものでは無く、普段「左脳・右脳」のどちらかの傾向が強い方でも、弱い方の脳域で思考した事を都合良く判断に使う複雑さを持ち合わせているのが人間である。
つまり「左脳域」と「右脳域」のどちらかで出した答えに「絶対性」は無く、どちらも正解と言えたりどちらも不正解と言える場合もある。
固体としての人間に取っては、この【左右の脳】の活動バランスが問題である。
つまり、一方に傾倒したままの人生を送る事は余り得策とは言えない。
いずれにしても、【右脳系】【左脳系】に関わらず、「俺は・私は」こちらが得意だから、或いはこちらで成功しているのだから「そっちの方は知った事ではない。」と安易に考えていると、思わぬ落とし穴に遭う。
つまりバランスが悪い「偏向傾向人間」に成ると、その本人にとってはそれが弱点になる。
例を簡単に取り上げると、【右脳派人間】である芸能関係や芸術関係に「薬物常習者」が多いのは、【左脳】の理性的意識能力を発揮すべき問題に直面した時にその能力が不足している為に、より【右脳】に逃げ込もうとする所に有る。
反対に、オーム教団事件に見られるように教団幹部に科学者や医師が幹部として多数含まれていた謎は、【左脳派人間】は理性的意識能力が得意だけに、【右脳】の本能的無意識能力系統に対して劣等感的弱点があり、「何故あれほどの知識人が?」と言う結果を招いた。
【左脳】が悲鳴をあげるほど理性的意識に抑圧されるストレス職業に役人(官僚・公務員)、教職関係者、司法関係者(警察官を含む)、宗教指導者、科学者、医学関係者などがあり、本来最も理性的であるべき立場の者が痴漢行為や淫行などの事件を起こす。
つまり職業柄【左脳域】ばかりを使っているストレス職業に携わる人間ほどバランスの癒しを求めて【右脳域】に暴走する。
これは理性だけでは人間が生きて行けない事を意味している。
所が、この【左脳域】ばかりを使うストレス職業に対する世間の理解は不足していて、彼らに【右脳域】のケアをしようと言う風潮は周囲はもとより本人にさえない。
一般的には【右脳派人間】も【左脳派人間】も、宗教のペテンに信者として引っ掛かってしまうと、そこから先は都合良く【右脳】ばかりを刺激・コントロールされて「盲信」に陥る事になる。
勿論、本能的無意識能力系統ばかりに傾倒した極端な【右脳派人間】も、社会性の部分では大いに問題が有るが、結論を言えば人間は適当に本能的であり適当に理性的でなければならない。
つまり【右脳】はリラックス本能的、【左脳】はストレス本能的に活動するものであるから、【左脳】のストレスと活動バランスを上手に取る為に【右脳】の信仰(宗教)や他の動物に無い「擬似生殖本能(性行為のみの欲求)」は生まれた。
言わば「畏怖の念」や「未知への恐怖」などの【右脳域の感性】の裏返しに「占い」や「信仰(宗教)」は存在する。
占いも信仰(宗教)も性行為も【右脳域での思考】で、本能的無意識能力系統を司(つかさど)る役割で「無意識脳」と言われ、イメージ記憶・直感・ひらめき・芸術性・創造性・瞬間記憶・潜在意識・リラックス本能などの感性が、人間としての固体に影響を与えている。
従って、理性的意識能力系統を司る役割で「意識脳」と言われ、言語認識・論理的思考・計算・じっくり記憶・顕在意識・ストレス本能などの活動を機能をしている【左脳域での思考】とは相反する「論理的ではないもの」が、「占い」や「信仰(宗教)」そして「性行為」などの範疇である。
人類は群れて生きる動物で、人間が群れ社会を形成し集団で仲間として生きる為に発達した脳の部位が、脳の左右に鎮座する「側坐核(そくざかく)」である。
その「側坐核(そくざかく)」は感性を司どり、人間の資質に存在する報酬、快感、恐怖、嗜癖(しへき)などの感性に重要な役割を果たす脳部位である。
逆説的に言えば、群れ社会を形成する為には「側坐核(そくざかく)」の働きに拠る報酬、快感、恐怖、嗜癖(しへき)などの感性が、「人間の群れ社会の根底にある」と言う訳である。
【理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)】に続く。
詳しくは【美しくなれる興奮の解説】を参照。
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