歌垣(うたがき)
歌垣(うたがき)は男女が集会し相互に自作の掛合歌を読み詠う事によって求愛し、或いは恋愛遊戯をする歌掛けの習俗の事で、中国の南東部に住む少数民族「苗(ミャオ)族」の間では、「遊方(ユゥファン)」と言われているこの歌の掛け合いの儀礼は、既婚に拘らない自由な性的交わり、「目合(まぐわ)い」の許される南方渡来の習俗の場である。
「目合(まぐわ)い」とは古事記・日本書紀にも記される言葉で、男女の性行為(せいこうい)の事であり、男女が性的欲求に従いお互いの身体、特に性器(生殖器官)や性感帯などを手・指、唇や舌先にて愛撫刺激し、男性器(陰茎)を女性器(膣)に挿入し射精するなどの行為と、それを含む多様な行為がまぐあい(性交)である。
そもそも儒教が入る前の列島の国・大和(日本)は、元々、歌垣(うたがき)の風習に代表されるように性に対して開放的な習風俗の国だった。
平安時代、万葉集(巻九)の高橋虫麻呂が詠んだ歌に「率ひておとめおのこの行きつどひかがふ[%歌」に 「他妻に吾も交はらむ 吾が妻に他も言問へ・・」と詠まれている。
歌の解釈は、「男女を率いて集い行き、自らが人妻と交わり、わが妻も他が言い寄っている」と歌垣(うたがき)の開放感を詠んでいる。
事、同意の上の性行為に関しては、どこまでがノーマル(正常)でどこからがアブノーマル(異常)なのかの線引きなど、当時は無い。
現代で言えば、歌垣(うたがき)はさしずめ乱交パーティだが、参加者合意のルールであるから人目も憚(はばか)らない大胆な性交相手の獲得遊びで、決まればその場で事に及ぶオープンなものだった。
こうした歌を、半ば公の歌集で堂々と発表出来るほど、当時の貴族間の性は開放的だった。
この歌垣(うたがき)、春の予祝(実り・豊穣/生産祈願)及び、秋の実り(豊穣/生産)の感謝行事としての性格を持って始まり、春秋の特定の日時に若い男女が集まり相互に求愛の歌謡を掛け合い性愛の相手を選ぶ風習俗である。
貴族の間で流行(はや)った習風俗・松茸(まったけ)狩りの余興・「掛唄」は、歌垣(うたがき)同様に妻をスワップ(交換)する野外セックス行事だった。
つまり松茸(まったけ)の収穫・秋の実り(豊穣/生産)の感謝を祝いながら「歌」を読むのだが、これ自体が無礼講の口説(くど)き歌で、妻がその気に成ればその場で事に及ぶ事を夫が許すオープンセックスだった。
「物見遊山」と言う熟語の本来の意味は、神社・仏閣・景勝地の「物見」と歌垣(うたがき)・松茸(まったけ)狩りの「遊山」=スワップ(交換)遊びである。
歌垣(うたがき)の遊山(ゆさん)は、背徳の不貞・不倫では無く夫婦合意の乱交プレィだった。
つまりマンネリ(新鮮みを失う)防止の為に、性交相手を互いにシェア(共有)する合意が仲間内で為(な)されていた。
どうやら歌垣(うたがき)の源は南方文化らしく、同様の風習は中国南部からインドシナ半島北部の山岳地帯に分布しているほか、フィリピンやインドネシアなどでも類似の風習が見られる所から、所謂原ポリネシア系縄文人か海人族(呉族)系氏族(征服部族)が持ち込んだ「南方文化」と考えられるのである。
古代日本における歌垣(うたがき)は山頂、海浜、川、そして市などの境界性を帯びた地が場所に選ばれ、特定の日時と場所に老若男女が集会し共同飲食しながら歌を掛け合う行事であり「性の解放を伴っていた」とされ、歌垣(うたがき)の風習が民衆の間で広く行われていた事が歌集「万葉集」などに拠り伺う事が出来る。
つまり古代日本において、万葉集の時代に歌垣(うたがき)の性風習が存在した訳であるが、この歌集・万葉集の時代とは仏教が伝来し蘇我氏と物部氏がその取り扱いを巡って争った五百二十年代から平城京遷都後十年ほど経た七百二十年の二百年間を言い、儒教が入る前の列島の国・大和(日本)に広く永く存在した性風習で有った事は間違いない。
万葉の時代は同父母の兄妹は流石(さすが)に性愛対象外だったが、今と違って身内も性愛対象で、父母のどちらかが違えば性愛の対象としても余り問題視されなかった。
万葉の当時は「通い婚」の時代で、当時の社会では女性が家を持ち男性が通う婚姻形態から、その男女の間で産まれた子は母親の元で育つ事に成る。
育った家が身内感の中心に成る関係から、父親が同じでも母親が違えば別の家の子であり、兄弟姉妹の感覚はなかった為に「血の繋がりが特に問題にならなかった」と言う事であろう。
そうした環境下の当時の男女の性愛の倫理観から、「万葉集」の中には現代ではタブーとされる異母兄妹の関係での夫婦や恋人、そして同時に夫婦と恋人の乱倫関係にあるなど比較的自由な性愛関係がさして秘する事でもないとされて伸び伸びと詠まれている。
今でこそ「劣勢遺伝」の問題があるので考え難いが、現代では「タブー」とされる異母の間で生まれた兄妹や三親等間の性愛が、皇室や貴族も含めて当時は珍しい事ではなかった。
三親等とは父方と母方のおじ(伯父・叔父)やおば(伯母・叔母)、甥(おい)や姪(めい)、息子の嫁の祖父や兄弟などが該当するのだが、その三親等間の性愛や結婚、一夫多妻や所謂(いわゆる)スワッピング(夫婦交換)など、生殖行為として限定されていない自由で解放された多様で豊かな性や愛のありようを詠んだ歌が万葉集の中に多数散見されるのである。
歌垣(うたがき)の記述は、「万葉集」の他に「古事記」・「常陸国風土記」・「肥前国風土記」などにも見え、その習風俗は日本列島の広い範囲に分布していた痕跡があり、現代でも沖縄の毛遊び(もうあしび)に歌垣(うたがき)の要素が強く認められるほか、福島県会津地方のウタゲイや秋田県仙北地方の掛唄にも歌垣(うたがき)の遺風が見られる。
長く続いた歌垣(うたがき)の風習俗も、次第に流入する新しい大陸文化の影響で平安時代から鎌倉時代を経て消滅の過程を辿り、近世になって、儒教道徳が氏族社会(貴族・武士)の生活意識を支配し始める事になる。
室町(足利)時代に成ると南北朝並立の経緯から北朝方と足利氏が勢力を増し、仏教に儒教が習合されて「氏族(貴族・武士)社会」は禁欲的な方向に傾倒して行くが、庶民社会(民の社会)は性に対して開放的な感覚を維持し続けて明治維新を迎える。
儒教精神を基とした「固定した身分制度・封建社会」に抗していた民衆の武器が、思想や道徳に囚われない人間の恋愛感情や男女の交情であったから、民衆の風俗思想は性に対しては寛大であったのである。
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日本に於ける神道系信仰習俗をまとめると、「歌垣の習俗」から「豊年祭り」に「エエジャナイカ騒動」、「暗闇祭り」から「皇室祭祀」に到るまで、「北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)」に集約される「妙見信仰」の影響が色濃く残っている。
そして天孫降(光)臨伝説の創出に、賀茂・葛城の事代主(ことしろぬし)の神と共に天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)の妙見信仰が「習合的に採用された」と考えられるのである。
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