井伊直政(いいなおまさ)
父の井伊直親は、直政の生まれた翌年、千五百六十二年(永禄五年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺され井伊氏は井伊谷(いいのや)の所領を失い、まだ幼かった直政も今川氏に命を狙われる事情となる。
一時、生母の再婚相手松下清景の松下姓を名乗るが、千五百七十五年(天正三年)徳川家康に見出され井伊の姓に復し、家康の小姓(児小姓)として男色(衆道)相手の間柄では最も深く寵愛され、家康子飼いの本多忠勝や榊原康政と肩を並べるように成る。
稚児小姓(衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。
しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。
井伊直政(いいなおまさ)は、本多忠勝と同じく本能寺の変に於いて家康の伊賀越えにも従って居た側近中の側近の一人で、将に成っても軍の指揮を取るよりも戦闘に加わる激しい性格の為、戦の都度大きな戦功を立てている。
井伊軍団の軍装・井伊の赤備えは有名で、直政(なおまさ)本人も「井伊の赤鬼」と恐れられた。
関ヶ原の合戦に東軍(徳川方)が勝利した後、石田三成の旧領である近江国・佐和山(滋賀県彦根市)十八万石を与えられたが、その後彦根の地に本拠地を移して彦根藩とする。
この井伊直正の子孫に、江戸幕府幕末の悲劇の大老・井伊直弼(いいなおすけ/近江彦根藩の第十三代藩主)が居て、徹底した反幕府思想勢力の弾圧を行い尊王志士達から憎まれ、ご存知「桜田門外の変」で尊王志士のテロに合い、命を落としている。
江戸時代には、譜代大々名の筆頭として江戸幕府を支えた近江国・彦根藩の藩祖と成り井伊家は明治維新まで存続している。
詳しくは、関連小論【井伊氏と女性戦国武将・井伊直虎(いいなおとら)】を参照下さい。
関連小論・【日本の、秘められた武門の絆・稚児小姓】を参照下さい。
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