石田三成(いしだみつなり)
その三成が、信義だけを信じて老獪な徳川家康相手に関が原の合戦を挑んだ。
なにしろ三成は、小田原平定の支城・忍城(おしじょう)篭城戦で、大将として五倍を越える兵を指揮しながら攻め落とせなかった凡将である。
善良な武将など戦に勝てる訳が無い。
善良な市民の悪い癖は、幾ら裏切られても、「お上を信じたがる」幻想を持ち続けている事で有る。
つまりそれは、永い事培われた征服部族の意識操作の影響である。
性善説に立ち、疑って掛かるのが「低俗な事」と、原則論に拘(こだわ)って真実に蓋をし奇麗事に終始する。
気持ちは判るが夢物語で、およそ権力者が奇麗事だけで勝ち上がって来る訳がない。
天皇家ならともかく、豊臣を奉じての大義名分だけでは他人(ひと)は動かない。
本来、ニ~三十万石程度の中規模大名である石田三成(いしだみつなり)がこの戦勝で伸し上がり、過日の秀吉のように主家である織田家を尻目に天下を取り、上に立たれて苦い思いをさせられるのは、自分達は御免である。
そうなると自他ともに実力を認める大々名の家康に付く方が、より現実的で納得が行くのである。
なまじ多少学問が出来たり上手く出世をすると、人間慢心が生まれる。
石田三成(いしだみつなり)もそうした手合いで、天下人豊臣秀吉に見込まれて出世を重ねるほど、独り善がりなその慢心が強くなっていた。
それが織田信長ほどの天才で、相手が実力を認めざるを得なければ別だが、三成はそこまでに至らない。
もつとも、厳密には統一で味方ばかりになった国内に、与える領地が無い事もあって朝鮮を狙ったのだから、攻め取れない以上、恩賞の出し仕様が無い。
大名を潰して再分配するほどの力も、豊臣政権の官僚(奉行職)と言うだけで所領が二十万石(十九万四千石)程度と中堅大名の三成には無かった。
本人が大して力を持たない癖に周りに指示を出すと「トラの衣を借りる狐」と揶揄(やゆ)される。
それを三成は、豊臣家の名で同格以上の者にまで強い態度で接した。
石田三成(いしだみつなり)は同僚の恨みを一身に買うが、秀才故に敢えて放置してしまう。
【石田三成・関が原の敗因】へ続く。
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皇統と鵺の影人
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