市の方(お市の方)
お市の方(おいちのかた/織田秀子)の正式な名乗りは嫁いだ後も織田秀子(おだひでこ)である。
勘違いして貰っては困るが、浅井長政婦人と言っても、この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗る習慣である。
織田家と浅井家はお市の方(おいちのかた)を要(かなめ)として同盟関係にあったが、信長が浅井氏と関係の深い越前(福井県)の朝倉義景を攻めた為に浅井家が朝倉方に付いて浅井家と織田家の友好関係は断絶する。
その後姉川の戦いで勝利した織田勢が攻勢に出て長政の小谷城は落城、長男の万福丸は捕われ殺害次男の万寿丸は出家させられ、浅井家は幼い長政忘れ形見の茶々、初、於江与の三姉妹を残して滅亡する。
織田家に保護されたお市の方(おいちのかた)と三姉妹は、厚遇されて九年余りを平穏に過ごしている。
お市の方(おいちのかた/織田秀子)は、本能寺の変で兄・信長が明智光秀に討たれた後、織田家の権力をソックリ乗っ取ろうと言う豊臣秀吉(とよとみひでよし)に対し織田信孝(信長の三男)を立てて織田家存続を唱える織田家重臣の柴田勝家と、三姉妹を連れ子に再婚する。
しかし羽柴秀吉と柴田勝家の緊張関係が長くは持たず、夫・柴田勝家が羽柴秀吉と武力対立して賤ヶ岳の戦いで敗れ、その後勝家と共に居城・越前・北ノ庄城に篭城したが持ち堪えられずに、茶々、初、於江与の三姉妹を逃がして後、勝家とお市の方(おいちのかた)は城内で自害した。
この数奇な運命の三姉妹、その後も波乱含みの人生を送り、豊臣秀吉側室・淀殿(淀君/浅井茶々)・京極高次正室常高院(浅井初)・徳川秀忠正室・崇源院(浅井お江与)に納まったが、豊臣秀吉の側室・淀殿(淀君/浅井茶々)に到っては息子・豊臣秀頼を押し立てて徳川家康(とくがわいえやす)と対立して大阪城で三度目の落城に合い、息子・秀頼と伴に自害している。
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皇統と鵺の影人
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