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石橋山合戦(いしばしやまのかっせん)

千百八十年(治承四年)八月、二十二日、源頼朝のその後の人生観を変える石橋山合戦が箱根山中を舞台に起っている。

山の天候は変わり易い。

この時期の箱根山中は暫(しば)し大雨や濃霧に見舞われる為、薄暗く見通し悪い日々が続く。

伊豆の国(いずのくに)で山木判官(平)兼隆を討ち、平氏打倒の旗を挙げた源頼朝は、同月、関東進出をめざし三百余騎を率いて東国に向かって行軍を開始した。

一方、源頼朝蜂起の報に接した大庭景親は、武蔵・相模の平家方の武士に出陣を呼びかけ、追討軍三千余騎を率いて西に向かった。

三百余騎の源頼朝軍は、平家方・大庭景親の軍勢が討伐に来たのを迎え撃つ為に相模の国・小田原の西方箱根の山塊が相模湾になだれ落ちる断崖のある石橋山に布陣する。

平家方は、大庭景親とその弟・俣野景久ら三千余騎で対峙し、両軍は石橋山の谷を隔てて対陣する。

また、源頼朝軍の後方には平家方・伊東祐親(いとうすけちか)の軍が挟み撃ちで布陣しする。

しかしこの対峙した勢力、平家方は三千余騎、源頼朝の軍勢は僅(わずか)三百騎で圧倒的に平家方が有利だった。

翌二十三日、大雨と濃霧の中で本格的戦闘が始まり、石橋山で敵味方が入り混じって勇壮に良く戦ったが多勢に無勢で平家軍に包囲されて敗れ、散り散りに湯河原方面に敗走するが、追撃する大庭軍と現在の湯河原町鍛冶屋の堀口あたりで戦い、頼朝軍は或る者は討たれ或る者は自害し壊滅した。

敗れた頼朝・北条時政ら主従は、周囲に岡崎義実、土肥実平など七騎が残るのみとなって絶対絶命の危機に陥る。湯河原の郷士・土肥次郎実平の案内で今の城山から箱根湯河原の山中を霧を味方に逃げ回り、石橋山の背後にある山中のに逃げ込み、桜郷の谷奥に在る洞窟に隠れて大庭軍をやり過そうとする。

その時、平家方・大庭軍に属する武将・梶原景時(かじわらかげとき/後に頼朝の御家人となる)に洞窟に身を隠している所を発見され、絶体絶命のピンチを迎えるが、どうした事か梶原は見て見ぬふりをしてその場を離れ、頼朝を見逃し助けてしまう。

常に討ち死にの恐怖に晒されながら九死に一生を得た頼朝主従は、山を下る途中の小道の峠でまたも大庭軍に出くわし、小道地蔵堂の純海上人にかくまわれ危機を脱している。

危機を脱し一命を得た頼朝主従は、八月二十六日土肥実平と共に相模の国・真鶴岬(まなずるみさき)から脱出、小船で海路安房の国(千葉県)に向かい、八月二十九日安房の国・猟島(かがりじま)に上陸しする。

その後安房の豪族、上総広常(かずさひろつね)千葉常胤(ちばつねたね)の支援を得て再起を図り、再び反平家の旗を挙げ精鋭三百騎を従え上総から鎌倉に向い、途中関東の有力な豪族を味方につけて頼朝は大軍を率いている。

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by mmcjiyodan | 2008-04-30 00:20  

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