乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)
乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)は飛鳥時代に中大兄皇子、中臣鎌子らが宮中で蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした政変である。
この頃、蘇我馬子(そがのうまこ)の子、蘇我蝦夷(そがのえみし)、孫の蘇我入鹿(そがのいるか)が、代々大臣(おお・おみ)として、大和朝廷にあったが、その実、「蘇我御門(そがみかど・天皇)として新朝廷を創った。」或いは、「蘇我大王」とする学者も多い。
これはひとえに物部氏の弱体化により、蘇我氏が抜きん出て強力に成った為だ。
バランスが壊れて、天皇家がコントロールして蘇我氏を押さえる事が出来る「もう片方の有力豪族」を失っていたからである。
飛鳥時代、蘇我御門(そがみかど)家が天皇家を凌ぐ権勢を誇っていた例を挙げる。
五百九十二年、渡来人、東漢氏の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)は、蘇我馬子の刺客として崇峻天皇を殺害し、蘇我氏に対抗する豪族達を次々に暗殺してその勢力基盤を拡大した。
まさにやりたい放題だが、押さえる勢力が無い。
この月に、馬子の娘である河上娘(かわかみのいらつめ・崇峻天皇の嬪)と東漢直駒との密通(強姦とも言われる)が露見し、東漢直駒は馬子によって処刑された。
使い捨てにされたのかも知れない。
歴代天皇の皇后は、全て蘇我氏の女性が当てられ、蘇我家の子供は、親王(皇子)と同じ扱いを受け、蘇我の当主は天皇と同列の扱いに成って行ったのだ。
そこで、中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇・先帝舒明天皇の子)、中臣(なかとみ)鎌子(後の藤原鎌足・ふじわらのかまたり)らが、蘇我入鹿を宮中で暗殺する。
「乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)」には、切羽詰った事情が有った。
中大兄皇子の母、皇極(こうぎょく)天皇(第三十五代・女帝・第三十七代・斉明天皇とも名乗る)の存在である。
皇極天皇が、蘇我入鹿(そがのいるか)の愛人で有ったからだ。
女帝だって女性である。
愛人の男の一人くらい居ても良い。
しかし相手が悪い。
皇極天皇と蘇我入鹿の間に皇子が出来ると、中大兄皇子の天皇即位の目が消え、天皇の皇統が、そちらに流れる危険があった。
そうなれば、正しく蘇我帝国である。
中大兄皇子は、舒明大王(じょめいおおきみ/第三十四代天皇)と、後の女帝・皇極天皇との間に出来た子で、本来なら争う相手のいない世継ぎだった。
しかし、舒明大王(じょめいおおきみ)が急逝した時の勢力バランスから、適当な後継者が居なかったので母(宝女王・たからのひめみこ)が父(舒明)の代の「次の天皇・皇極」として即位し、時の権力者、蘇我入鹿と愛人関係が出来てしまっていた。
それで、宮中しかも母帝・皇極天皇の目の前で、愛人(入鹿)を皇極の息子(中大兄)が切り殺す場面と成ったのだ。
従って、ドラマの様に大衆受けする「格好の良い」ものではない。
本来は、只の権力争いである。
女帝を「愛人にする」とは、現代の感覚でゆけば恐れ多いが、当時の感覚では権力掌握の有力手段であった。
学者によっては蘇我家が最高権力者で、「天皇家の後援者(パトロン)だった」とも言われている。
いずれにしても、天皇家は大和の国の象徴に成っていたから、後の世同様に、」外すのではなく取り込む形を取った。
たとえは悪いが天皇家は、或る種絶対のブランドとして、周りを納得させる為の存在だった。
中大兄皇子は、中臣鎌足(後の藤原鎌足)らと、乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)を起こし宮中で蘇我入鹿を暗殺する。
このクーデター、後に孝徳大王(こうとくおおきみ/第三十六代天皇)に収まる皇極天皇の弟皇子「軽皇子」が裏で糸を引いて、中大兄皇子達に「やらせた」とする説もあるが、まだ、確たる証拠はない。
【天智天皇(中大兄皇子・なかのおおえのおうじ/葛城皇子)】に続く。
【第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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