伊豆国(いずのくに)=伊都国(いとこく)説
古代葛城王朝・伊都国は伊豆国(いずのくに)だった。
そしてその都は田京(伊豆の国市大仁田京)に在った。
田京(たきょう)一帯は、古くから伊豆国(いずのくに)における「政治・文化の重要な場所であった」と言われており、この事を示す多くの古墳が残されている。
また、御門(みかど)から田京にかけては条理制(じょうりせい=大化の改新の際に行われた土地の区画法)の址も見られる。
御門地区にある「久昌寺(きゅうしょうじ)の六角堂址」と伝えられる史跡が、もっと古い時代の葛城御門の宮居「葛城の掖上(わきがみ)宮」と言う可能性を感じる。
二千年を超える影の歴史が始まったのは、この「伊都(いと)国」からだった。
修験道の祖「役小角(えんのおづぬ)」の家系は、伊豆の国(いずのくに)に起源を発する豪族臣王・葛城氏の枝であり、下級貴族である。
この葛城氏本家が、突然歴史から消える謎があり、次に名が歴史に表れた時は帝(天皇)の皇子の賜り名として、「葛城王」がある。
この事の意味するものは何だろう?
四国に現存する「伊豆・伊都同系」の神社群を検証すれば決定的な物証で、伊豆半島説の「伊豆(イズ)=伊都(イェズ/いと)」の関係は明白となり、九州説の「糸島半島=伊都」ではない。
決定的な事は、桓武天皇の第八皇女に阿保親王(あぼしんのう/平城天皇の第一皇子)の妃で、在原業平(ありわらのなりひら/右近衛権中将)の母・「伊都内親王」が居るが、読みは「いずないしんのう」で、伊都は正しく「いず」と読ませ、時に「伊豆」とも表記している。
つまり平安時代初期の段階で伊都は「いず」と読み、「伊豆」とも表記しているにも関わらず遥か後世の学者が糸半島を読みが「イト」だけで「伊都国所在地」とするのは少々強引ではないだろうか?
正直、最有力とされる「伊都国・糸島説」については、「発音が似ている」と言う安易な発想以外に然したる証拠は無い。
確かに、現地・糸島には三雲南小路遺跡が存在するが、その遺跡が伊都国・糸島説を証明するものではないから、糸島は現在でも有力説としか扱われては居ない。
つまり伊豆半島・伊豆の国の方が、遥かに伊都国の可能性が高い多くの材料が散見されるのである。
「東南へ陸行すること五百里にして行程一ヶ月で伊都国に到る。官は爾支(にし)と曰(い)う。副は泄謨觚(せつもこ).柄渠觚(ひょうごこ)と曰(い)う。千余戸有り、世々王有るも、皆女王国が統属す。郡使が往来する時、常に駐(とどまる)所なり。」
これが、魏志倭人伝に記された伊都国の位置である。
水行ではなく陸行で東南へ五百里とある。
上陸地点は不明で起点が判らないが、陸路をかなり行く事には違いない。
これをまともに読むと、該当の地が「九州糸島半島説」はかなり苦しい。
陸行と言うからには少なくともかなり遠方の陸路でなくては成らず、また、「世々王有るも」と代々の王が存在し、郡使が必ず寄る所としている。
「皆女王国が統属す。」とある所から、邪馬台国と形式的冊封(さくほう/さくふう)関係にあり、「世々王有るも」と言うからには「独立国であった国」と考えられる。
この陸行五百里、旅の行程一ヶ月について研究者の一部は、九州糸島説では苦しい(整合性がない)ので、旅の苦労を中国人特有の「白髪三千丈」的な大げさな表現(誇張癖)による「本国への誇大報告だ」としている。
しかし上陸後「行程一ヶ月」はかなりの距離で、「誇張癖」だとしても後日別の者が行けば直ぐ判るような報告をするだろうか?
これはまた辻褄合せの「都合の良い解釈方法だ」と思うのは我輩だけだろうか?
すると、倭の国々の東の外れに伊都国があり、郡使の終着点だった。
その都「田京」が千戸余りの都市だったとも考えられる。
当時とすれば、千戸は人口にして三千から六千人と考えられ、かなりの大都市である。
国の総戸数と捉える説もあるが、この時代、他国に見せる「詳しい統計がある」とは思えず、目視した概要と考えるのが、妥当ではないだろうか?
また、「魏志倭人伝」に拠る「皆女王国に属す」も、どの程度の意味があるのかは解釈が分かれる所である。
卑弥呼の称号は「親魏倭王」である。
倭の国々に在っても、中国の帝国が分裂し三国志時代を迎えると、その影響が出て親呉政権(呉族/海洋民族系)や親魏政権(加羅族/天一族)に色分けをされて行く。
「魏志倭人伝」に拠ると伊都国を「女王国に属す」記述しているが、これはあくまでも「魏の言い分」の可能性がある。
伊都国(呉族/海洋民族系)は、当然「親呉」であり、漢の金印を持って列島では隠然たる力を有していたのである。
「親呉」の伊都国は呉と同盟を結んで魏と対抗していた為、卑弥呼と「親魏倭王」として組んだのではないだろうか?
詳しくは【葛城ミステリーと伊豆の国=伊都国(いとこく)説】に飛ぶ。
初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。
この「上古天皇」は、「かみふるてんのう/かみのみなすめらみこと」と読むのだが、この「上古天皇(かみふるてんのう)」は「神降(かみふ)る=天孫降臨」とも読め、古事記・日本書紀の編纂意図が伺われる。
つまり、この頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。
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