明智光秀=天海僧正説
それを追うと、「本能寺の変」の隠された真実がおぼろげながらに見えて来る。
明智光秀は謀反人ではなかった。
彼こそ「稀代の忠臣」と評価されるべき男だった。
葵の紋と桔梗紋の謎を追って、「本能寺の変」光秀決起の謎が明らかに・・・・・・・・・。
そのきっかけは、想像を超えた織田信長(おだのぶなが)の「とてつもない野望」だった。
明智光秀が引き起こした「本能寺の変」は、見るからに雑なヤッツケ仕事である。
常に諜報畑を歩き、外様でありながらほぼ織田家臣団の筆頭まで上り詰めて来た光秀には、織田軍団に在って余り人気が無い事は光秀本人も自覚していて、大名達の支持が集まらない天下取りは無謀である。
つまり明智光秀の「本能寺の変」には、天下取りの野心も無ければその支度も無かった。
しかし、僅かな供廻り(小姓近習衆二百数十名)のみで京の都・本能寺に織田信長は在り、一方明智光秀は、純粋に子飼いの軍勢一万三千騎を率いていた。
「この機を逃せば、お館様は天子様ごと朝廷を灰燼(かいじん)と化すだろう。」
信長に拠る皇位簒奪の野望阻止には千載一遇のチャンスが巡って来て、光秀は決断した。
人間、理屈に合わなくとも心情で決断する事があり、それを理屈で読み間違える者も多い。
織田信長殺害後、天下の秀才・明智光秀が天下を掌握する積もりで在ったなら、事前に相応の手を打ち、味方を集められる周到な体制を整える筈である。
それが・・・、「天下の知将」と言われた光秀ほどの男が、ずさんにも「本能寺の変後」の事はほとんど計画しては居なかった。
それもこれも、差し迫っていた織田信長の野望阻止が精一杯で、明智光秀には「変事後の事を思案する余裕など無かった」と考えるのが妥当な所である。
光秀にとって、己の名声など何の意味も無かった。
ただ、自身の能力を確認する為に、成し遂げたい事があった。
それとて、自身が納得したいだけで、人が知る必要は無かった。
彼は、全てをあっさりと捨て去り、隠遁生活に入った。
本編【第三巻】をお読み頂きたいのだが、恐るべき事に、明智光秀=天海僧正説の影には織田信長の計り知れない大陰謀と徳川家康の出生の秘密が存在していた。
ダイジェストなら【明智光秀=天海僧正説を検証する】に飛ぶ。
【天海=光秀説・その一{天海僧正の千里眼}】
【天海=光秀説・その二{桔梗門(別名、内桜田門)と慈目寺}】
【天海=光秀説・その三{二人の天海僧正}】
【天海=光秀説・その四{明智平と桔梗紋}】
【天海=光秀説・その五{東叡山(とうえいざん)寛永寺と秩父神社}】
明智光秀(あけちみつひで)=天海僧正説については、ウエブログの短文では書き切れないほどの多くの推論材料があるので、出来れば皇統と鵺の影人・本編の第三巻をお読み頂きたい。
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