足利尊氏(あしかがたかうじ)
室町幕府の初代征夷大将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)は幼少の頃又太郎と名乗っていた。
足利又太郎(後の尊氏)は、鎌倉幕府の有力御家人・足利貞氏の次男として生まれる。
長男・足利高義がいたが、早世した為に足利又太郎(後の尊氏)が家督を相続する事となった。
足利氏は河内源氏の足利氏嫡流家で武家の名門だが、北条政子以来の鎌倉幕府執権・北条家(平氏)の御家人として風下に居た。
元服当初、執権・北条高時の偏諱を賜り足利高氏と名乗って居る。
しかし足利氏嫡流家としては、元々武家の名門として天下取りは悲願だった。
北条執権家とは浅からぬ縁(えにし)が在ったが、後醍醐帝の倒幕挙兵は千載一遇のチャンスだった。
北条執権家の命を受け西国の討幕勢力を鎮圧する為に名越高家とともに上洛した足利高氏は、天皇方に付く事を決意して所領の丹波篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げ、元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡に武功を挙げた。
鎌倉幕府の滅亡後、高氏は後醍醐帝の信任厚く、天皇の諱・尊治から御一字を賜り高氏改め尊氏と改名する。
後醍醐帝の「建武の親政」に在って、鎮守府将軍・左兵衛督に任ぜられた足利尊氏は、三十ヶ所の所領を与えられ武門の最上位に立っていた。
しかし足利尊氏(あしかがたかうじ)は、何故か「建武の親政」に中央における主なポストを得ていない。
これには後醍醐帝の公家政治の意志が働いたのか、それとも足利尊氏に最初から別の狙い「足利幕府成立」が在ったのかは謎である。
いずれにしても、足利尊氏(あしかがたかうじ)が思い描いて居たのは、征夷大将軍に就任して自らの幕府を起こす天下取りだった。
尊氏(たかうじ)が鎌倉幕府・北条執権家から寝返って後醍醐天皇に味方したのは、本音は「北条執権家に取って代わるチャンス」と見たからだ。
所が鎌倉幕府を倒してみると、尊氏の思惑は外れて後醍醐天皇は周囲の公家を重用して親政を始めてしまう。
鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇が得意絶頂で、「建武の新(親)政(天皇の直接統治)」を行うが、護良親王を排除した事から武力の後ろ盾の要を失い、武士を軽んじた事と合いまって、僅(わず)か二年で失敗する事になってしまった。
後醍醐天皇は、倒幕に協力した武士達よりも、周りの側近や公家達を厚く処遇し、相変わらず阿野簾子との性交に勤(いそ)しむばかりで、武士達の反感を買ったのである。
帝の地位をもってすれば、誰もが「自分の言う事を聞く」と、判断を誤っていたのだ。
そうした不満に押されて足利尊氏が政権奪取の野望を抱き、叛旗を翻し鎌倉に勝手に幕府を開こうとして後醍醐天皇と対立する。
足利尊氏が湊川の戦いにおいて後醍醐天皇方の新田義貞、楠木正成らを撃破して後醍醐方に勝利し、入京に入った。
建武三年(千三百三十六年)に尊氏が京都に入ると、後醍醐天皇は味方の台密修験の本山、比叡山延暦寺に逃走する。
後醍醐天皇から三種の神器を接収した足利尊氏は後伏見天皇第二皇子、豊仁(ゆたひと)親王を、光厳上皇の院宣をもって光明天皇として即位させて京都に武家政権(室町幕府)を成立させる。
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by mmcjiyodan | 2008-04-30 03:08