阿野全成(あのぜんじょう)/今若丸
阿野全成(あのぜんじょう)は平安末期から鎌倉初期に掛けての僧侶兼武将で源義朝の七男、初代鎌倉幕府将軍・源頼朝(みなもとよりとも)とは腹違いの弟にあたり、義経(牛若丸)の同腹の長兄(腹違いの兄は頼朝、範頼)になる。
阿野全成(あのぜんじょう/今若丸)は、甥で二代将軍の源頼家と対立して殺害されたとする説が主流を占めているが、事実は北条一族に殺されたのである。
二代将軍の源頼家との対立説は、頼家を殺害させた北条家が執権として権力を握った後の捏造である。
父・源頼朝が平治の乱に破れ、平家全盛の時代だった為に全成(ぜんじょう)は幼くして醍醐寺にて出家させられ隆超(または隆起)と名乗るが、ほどなく全成と改名し、「醍醐禅師」あるいは「悪禅師」と呼ばれた。
長じて「全成(ぜんじょう)」と名乗る僧侶に成って居た今若丸(阿野全成)は、僧籍のまま源頼朝挙兵に呼応して手柄を立て、武蔵国長尾寺(川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、北条政子の妹・北条保子(阿波局)と結婚する。
その保子は、頼朝の次男千幡丸(後の実朝)の乳母となり、以降阿野全成(あのぜんじょう)は源頼朝政権に於いて地味ながら着実な地位を築いて、駿河(静岡県)の国・阿野の庄(今の沼津市原・浮島)を拝領、大泉寺を建て阿野姓を名乗る。
しかし頼朝が死ぬ(事故死?)と、「阿野全成(今若丸)」も義経と同じように北条に狙われ、関東の常陸(ひたち・茨城県)に流刑の上、首を討たれているのだ。
ちなみに、阿野全成の妻は阿波局(あわのつぼね/北条保子)と言い、政子の妹で、北条時政の娘である。
息子の時元の方は、政子にとっては「甥」、時政にとっては「孫」であるが、政子は源氏の血筋には容赦は無い。
北条氏の手に拠って源氏の血統が次々と粛清される中、全成(ぜんじょう)の長庶子ら三人は僧籍に入っていた為に難を逃れるが、武家の系統を受け継いだ息子(全成の四男・正室の子の為嫡男)の「阿野時元」も、同じ運命を辿って父の遺領である駿河(静岡県)の国・阿野の庄で北条の大軍に囲まれ討ち取られている。
常盤御前が体を張って守った義朝の血筋三人、武門源氏の男系の血筋はここに途絶えてしまった。
そして唯一残った母系の公家・阿野家から、後に時代を揺るがす魔性の女性が現れるのはまだずっと先の鎌倉幕府崩壊の頃の事である。
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皇統と鵺の影人
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