阿弖流為(アテルイ)
そのヒタカミ(日高見国)蝦夷の首領に、アテルイ(阿弖流為)と呼ばれる指導者がいた。
この名前、個人名なのか、地位の名称なのか、まだ結論が出ていない。
アテルイ(阿弖流為)を人名と決め付けたのが現在の事情で有るが、悪路帝(王)説によると、「悪路」と言うのはアイヌ語の「アコロ」と同じ意味で、「われわれの」と言う意味ではないか、と言う事である。
まず、このヒタカミ(日高見国)蝦夷の役、官軍と賊軍と表現する歴史学者も居るが、その表現は正しくない。
アテルイ(阿弖流為)は賊軍ではなく、祖国防衛軍である。
独立している祖国を、これから征服しようとする相手に、何で「賊軍」と呼ばれなければ成らないのか?
大和朝廷側の文献を鵜呑みに読む歴史学者の、余りにも大和朝廷寄りに偏った発想である。
この阿弖流為(アテルイ)が守るヒタカミ(日高見国)蝦夷に、討伐の征夷将軍・紀古佐美(きのこさみ)の軍勢を差し向けたのが、奥州(東北)征服をもくろむ桓武天皇である。
ところが、いかに朝廷軍と言えども、組織的に抵抗されるとそう簡単には決着がつかない。
紀古佐美(きのこさみ)の軍勢がアテルイ(阿弖流為)の神出鬼没の作戦に大敗を喫してしまう。
征討軍は北上川にそって北上を始めた。
余談だが、この北上川(きたかみがわ)の呼び名、本当はヒタカミカワ(日高見川)である。
対する蝦夷軍の将軍はアテルイ(阿弖流為)、朝廷軍は隊を二つに分けて進軍した。
アテルイ軍はその館から三百人ほどが出て抵抗を試みるが、適わず退却し、紀軍は村々を焼き払って追撃する。
日高見川(北上川)を渡った朝廷の戦闘部隊、四千人ほどの当時としては大軍が水沢の巣伏村に来た頃に、アテルイは急遽反撃に出る。
一部は後方に回ってこの渡河部隊を挟み撃ちにし、激戦となるがここで朝廷軍は壊滅的な大敗北を喫する。
紀軍(朝廷側)の被害は戦死者二十五人・矢にあたった者二百四十五人・河で溺死した者千三十六人・河を泳ぎ 逃げて来た者千二百十七人と言う敗北で有る。
紀軍(朝廷)はここにくるまでに十四村・住居八百戸 を焼き討ちにして、アテルイ軍の戦死者は八十九人だった。
九月十九日に紀古佐美(きのこさみ)が帰京したが敗北の責任を喚問されて、征夷将軍の位を剥奪された。
大和朝廷(ヤマト王権)の勢力図は、七百十年代頃の多賀城の鎮守府設営(宮城県)から百年かけて北上を続け、今の青森県の手前に到達している。
この百年間は、大和朝廷(ヤマト王権)勢力の奥州(東北地方)侵略の歴史で、エミシ(蝦夷)側にすれば、アテルイ(阿弖流為)やモレィ(母礼)は民族の英雄だった。
千九百九十年以降、漸(ようやく)くアテルイ(阿弖流為)と言う人名が教科書の歴史に記載される。
千九百九十七年度、中学校歴史教科書七社のうち三社がアテルイを取り上げ、二千二年度までに、八社中七社がアテルイ(阿弖流為)を記述するようになった。
二千年度前後で漸(ようやく)く中学校歴史教育に取り上げられたアテルイ(阿弖流為)の存在は、北海道の先住民族・アイヌに比較し東北の先住民族・エミシの復権が遅れた事を物語って居る。
アテルイ(阿弖流為)の物語は、【坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)】に続く。
【日本の伝説リスト】に転載文章です。
小論・【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】をお薦めします。
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