関ヶ原の合戦(一)
しかし戦に対する周到さは、合戦当時既に五十七歳に成っていた徳川家康の方が遥かに勝っていた。
千五百六十年(永禄三年)の桶狭間の合戦に十八歳で初陣してから、もう三十九年間も事有るごとに戦って負け戦の味も舐めて来た家康にとって、勝ち方は無数にある。
それに引き換え三成は有能な行政官僚ではあるが、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当、九州征伐の参陣でも輜重(しちょう/後方支援)を担当するなど、まともに大軍を指揮した実戦経験は乏しかった。
なにしろ三成は、小田原平定の支城・忍城(おしじょう)篭城戦で、大将として五倍を越える兵を指揮しながら攻め落とせなかった凡将である。
かくして、慶長五(千六百)年九月十五日関ヶ原に、東軍八万(徳川家康方)、西軍十万(石田三成方)が激突する。
一見すると、ほぼ互角か兵力的に西軍有利のようだが、中身が違う、本当の親三成派部将は数えるくらいで、実質総兵力は二から三万程度、あとは付き合いか様子見で、頼りにならない。
それでも緒戦は西軍有利に運び、一時は勝機らしきものもあったが、小早川秀秋(豊臣秀吉の甥で小早川家の養子)の裏切りに会い、西軍、石田方は壊滅的敗北をする。
この関が原の戦いで獅子奮迅の活躍した猛将・福島正則(ふくしままさのり)は東軍に布陣して居た。
東西両軍が対峙した関ヶ原の戦い本戦では、福島正則は当初石田勢との直接対陣を希望したが手柄の一人占めを憂慮した家康の思惑で結局叶わず、幾多の戦いで先陣を務めたにも関わらず、功を焦った井伊・松平らに抜け駆けされ激怒し、西軍・宇喜多勢一万七千に福島勢六千余りで戦端を開き死闘を繰り広げた。
宇喜多勢に突っ掛かっては見たが、宇喜多秀家隊の前衛を率いた明石全登は音に聞こえた勇将の上に兵は八千で福島勢は劣勢に立たされて押しまくられ、一時壊滅寸前に追い込まれている。
この福島勢壊滅の危機を、正則自身が血相を変えて叱咤し一進一退の攻防を続けている情況で西軍方に配陣していた小早川秀秋が突如東軍方として参戦、それを機に西軍の戦線は次々に崩壊した為に福島正則隊は甚大な被害を受けながらも宇喜多勢を打ち破る事に成功する。
関が原の戦いは、一万五千名強とも言われる大軍を率いて参加していた小早川秀秋が、松尾山城砦に去就が明らかでないまま西軍として居座って、東軍有利と見るや寝返った為に、僅か半日で勝敗の決着がついた事に成っている。
この小早川秀秋の寝返り、秀秋は秀吉の正妻「おネ(ネネとも言う)」の甥で、淀君や石田三成を嫌う「おネ」を通して家康からの内応話や側近への東軍からの勧誘話が漏れ聞えている。
実はこの裏切り話、裏切りにあらず。
始めから家康方と密約が出来て居た話である。
【関ヶ原の合戦(二)】へ続く
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