一所懸命(いっしょけんめい)と織田信長
織田信長の軍団が、強かったのは「常設軍」だったからである。
この常設軍は、この時点では「画期的」な事だった。
信長、天才の由縁である。
当時、どこの大名も常設軍は持たず家臣に所領を与え、そのまた家臣は土地(耕作地)を与えられてそれを運用していた。
つまり、土地を媒介とする事で自活させ、日頃の支給金などの負担を逃れていたのだ。
勿論そんな制度だったから農業従事者(後に言う百姓)と武士にさしたる違いは無い。
武士も農業従事者(後に言う百姓)をしていた」と言う事に成る。
領地、知行地がこの時代の基本であり、懸命とは「命を懸ける事」であるから、一所懸命は所領を「命ち懸けで守る事」が当時の武士に課せられた唯一の疑いない価値観で、「一所懸命」は、ここから来ている。
小領主、郷士、地侍など、普段は経済的に独立していて、作地をして土地を運用し生計を立てているのだ。
そして、いざ「事ある時」に召集されて軍団を形成する。
勝てば、新たに領地がもらえる。
敵が攻めてくれば、自分の土地を守る為に領主の下に結束する。
あくまでも、土地(領地)を取られない為の、共同作戦である。
それで、相手との間に「領地安堵」の密約があれば、「一所懸命」に合致し、裏切る事も有る。
「自明の理」である。
この時点で大事なのは「土地」で、主従関係では無い。
言わば「傭兵契約」の様な関係であった。
それで、「どちらに付いたら徳か」と言った召集される側の「値踏み」もあり、本音の所では充てにし難い形態だった。
この事が、信頼のおけない裏切りの芽を育たせ、「下克上」を育生んだ。
例え武士と言えども、戦はしていても元々始めから「死にたい」と思って戦をして居るものは、そう多く居る訳が無い。
本音を言えば、良い思いをしたいからこそ、武士はいささか危ない思いをしても戦はする。
そこまで行かなくても、行き掛かりで止むを得ずにする戦も在る。
そう言う訳だから、充分根回しをした謀事で決着をつけるか、若い者達の無鉄砲な気力が役に立つくらいで、古参の武士など現代の映像で見せられるように格好の良い戦ぶりは少なく、互いに「こけ脅(おど)し」とヘッピリ腰の合戦が現実だった。
武将がそんなだから、雑兵はもっと充てには出来ない。
本気で命のやり取りをするのは出世志向一部だけで、後は仕方なしの参加だから氏族の大将が殺られれば、「わーっ」と蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
雑兵は、各々の領主が領地の百姓を半ば強制的に刈り出してくる。
農閑期しか刈り出せない。
だから、田植えの時期と稲刈りの時期は、「戦闘は起きない」と言う暗黙の了解があった。
百姓(雑兵)も武将も農作業が急がしいと集まらないのだ。それでは、作戦を立て難い。
「そろそろ稲刈りの時期でござる。」
「致し方なし、兵を引こうぞ。」
日本の信仰精神からすると、稲作は神事である。
つまり、田植え稲刈りに戦をしない暗黙の了解には、食糧問題だけに止まらない精神的なものがあったのである。
所が、その信仰精神そのものを屁とも思わないのが信長の思考だった。
武田信玄と上杉謙信が、「川中島」で何度も剣を交えながら、決定的な勝敗が付かなかった事も、この特殊な事情からである。
農作業の時期が来ると、互いに兵を帰している事実がある。
この長く続いた「家臣団の土着性」を、信長はある策略で壊して行った。
これも、天才信長ならではの手法である。
信長は自身の本拠地を次々と変え、家臣団を定住させなかった。
那古野、清州、小牧、岐阜、安土と移って、その都度、家族を同伴させている。
これでは、家臣も付いて歩くしか無い。
信長は、本当の目的を一々説明する事無く、合理的に家臣の土着性を改めたのである。
単純な話、相手が兵力を整え難い時期にすばやく軍団を編成して攻め込むには、「常設軍」が必要なのだ。
この差は歴然であった。
その強力な織田信長軍団に、雑賀孫市の鉄砲傭兵軍団が雇われて加われば無敵で有る。
信長の編み出した多重構えの鉄砲戦術も、チームワークを訓練した団体戦法で、弾込めの空白時間(ロスタイム)と言う弱点を補う工夫をしたものである。
今でこそ、何でも無いような事でも、当時の常識に囚われて、他の大名は旧泰然とした荘園~守護時代の体制を改めなかった。
当時の守旧派にすれば、確かにルール違反であり、「文化に馴染まない」物だったのではあるが、その事に「何の説得力がある」と言うのか?
そう言う見苦しい言い分を平気で口にするから、知恵が無い者は始末に負えない。
つまり、今の子供が聞いたら「ばかだねー」と言う事でも、「普通」或いは「常識」に囚われていたばかりに、攻め滅ぼされてしまったのだ。
統制の取れた団体戦型の常設軍の活用。それで、信長軍団は勝ち続けた。
相手には、始めから利益で動く「寄せ集め」と言うハンデがあったのだ。
不利になったら「寝返る」なり、逃げるなりすれば良い。
帰って、「自分の土地」で百姓仕事に精を出せば良いのだ。
つまり、所領と言う半農の拠り所があった。
信長の専業武士団は「戦いだけが本業」で、帰る所は無かった。
土地は所有(所領)していても、百姓に任せているのだ。
武士、侍(さむらい)と言う、俸禄(ほうろく)・扶持米(ふちまい)をもらい、主君に滅私奉公する戦闘専門の「常設軍事組織」ができたのは、信長以降の安土、桃山時代からの事である。
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