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閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)

美濃・斎藤家の濃姫(斉藤帰蝶)が尾張織田家の織田信長と婚姻したのは千五百四十九年(天文十八年)二月と言われている。

大名家の婚姻は、誓約(うけい)を平和的に大名家の勢力形成の手段として、「性事は神事であり政治」・この事が的を得た政治の本質と公共性の共通認識を証明している。


婚姻した時は信長十六歳、濃姫十五歳だった。

当時としては、大名豪族の縁組としてはさほど早くは無い。

御年頃としては、似合いの年恰好で有る。

勿論、親が決めた婚姻だから愛情が在っての婚姻では無い。

しかし愛情は後から着いて来る。

現代の建前では違うかも知れないが、実は男性と女性はその気になれば、昔も今も愛情など無くとも性交行為は出来る。

その性交行為で女性がイク(絶頂)に達してしまえば、その快感がオキシトシン(脳内愛情麻薬・抱擁ホルモン)を発生し、相手に女性の愛情が芽生える。


読者の期待に応えて、二人の夫婦生活を想像する。

現代の建前では違うかも知れないが、実は男性と女性はその気になれば、昔も今も愛情など無くとも性交行為は出来る。

その性交行為で女性がイク(絶頂)に達してしまえば、その快感がオキシトシン(脳内愛情麻薬・抱擁ホルモン)を発生し、愛情が芽生える。


世間一般の俗説に拠ると、織田信長は「サド的なセックスを好んでいた」と言う。

恐らくは、阿修羅のような信長の、その過激な生き方から想像したものであろうが、否定する材料も無い。

この件では、数名の作家が二人の夫婦生活をかなり大胆に激しいエピソードを描いているが、「さもあろう」と考えられる背景が揃っていて、作家なりの見当が付くのだ。

日本民族には、欧米のキリスト教文化と違い昔から「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」と言う姫方・女房方が積極的に殿方を喜ばせる性技があった。

殿方を喜ばせる性技「閨房術(けいぼうじゅつ)」は、姫方・女房方にとって大事な積極的に習得すべき心得だったほど、性に対しておおらかで積極的な考え方を日本民族は持っていた。

と言うのも、実は殿方が姫方・女房方の性技に喜ばされて操られる事は珍しくない為、「閨房術(けいぼうじゅつ)」に平和な武器としての価値が認められていた。

つまり男女の間の性技は大きな要素で、おシャブりや腰使いが上手(うま)ければそれだけで天下を脅(おびや)かす存在になれるのだ。

当然ながら勢力を競う氏族(貴族や武士)の子女は誓約(うけい)、の概念の元に所謂(いわゆる)「閨閥(けいばつ/婚姻による家同士の連携)」創りの役割を果たす為に世に生まれて来た様なものだった。

しかしその女性達を、判ったように「不幸な時代の女性」とは決め付けられない。

その時代を気高く生きるには、その時代の女性の生き方がある。

当時の氏族社会は「妾妻」を持つのが当たり前で、実質一夫多妻だったから閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)は現在のように「愛を確かめるもの」と言う拠りも殿方を愉しませ「愛を獲得する為のもの」だった。

原点がその通りだから女性はむしろ性交には積極的で、凡(およ)そ人間に考えられる閨房行為に女性には禁じ手など無く、口淫性交や陰間(肛門)を使う事など技の内である。


さらにその当時、武門の閨房行為は衆道(しゅうどう/男色)に及んでいる。

例えば氏族(武士や貴族)の間では男色(衆道/しゅうどう)が当たり前で、ほとんどが両刀使いだったから、女性相手でも陰間(かげま/肛門)も使っての行為は現在よりも一般的で、武家の娘はその位の事は心得ていた。

稚児小姓衆道)の習俗については、当時は一般的だったが現代の性規範(倫理観)ではドラマ化し難いから、お陰で誠の主従関係が「互いの信頼」などと言う綺麗事に誤魔化して描くしかない。

しかし現実には、稚児小姓(衆道)の間柄を持つ主従関係は特殊なもので、主の出世に伴い従が明らかにそれと判る「破格の出世」をする事例が数多い。

血統第一だった当時、血統に弱い者が「能力以上の成果を上げたい」と思えば、「縁」に頼るしかない。

女性(にょしょう)には妻に成るなり妾にあがる成りの誓約(うけい)の「縁」があるが、男性には身内の女性を介しての「間接的な縁」でしかないのでは誓約(うけい)としての「縁」が弱過ぎる。

誓約(うけい)の概念に置いて、絶対服従の具体的な証明は身を任す事である。

若き織田信長に近習(小姓)として仕え、腹心の一人として出世し、加賀百万石(加賀藩百十九万石)の太守に成った前田利家(まえだとしいえ)も、織田信長の男色(衆道)寵愛を受け信長側近から出世した男である。

信長は男色(衆道)寵愛が盛んで、その主な相手は徳川家康掘秀政、そして森欄丸などが挙げられる。

井伊直政(いいなおまさ)は、千五百七十五年(天正三年)徳川家康に見出され井伊の姓に復し、家康の小姓(児小姓)として男色(衆道)相手の間柄では最も深く寵愛されように成る。

この家康と直政の縁、当時の井伊家の当主・井伊直虎の推挙に依るとされている。

参考小論・【井伊氏と女性戦国武将・井伊直虎(いいなおとら)】に飛ぶ。

この徳川家康と井伊直政との君臣の交わりは、若き日の家康が織田信長に「男色衆道(同性愛)の手ほどきを受けたから」と容易に想像がつく。

参考小論・【日本の、秘められた武門の絆・稚児小姓】に飛ぶ。

日本古来の「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」の発祥は不明だが、考えられる推測としては他の武術同様にその発祥を諜報活動を担っていた陰陽修験に見られる可能性が強い。

以後、修験組織が関わって成立した「白拍子(しらびょうし)遊技制度」の「床技」などで発展、戦国時代の武家の間で戦略的に子女を持って利用されて「術」として確立された。

この「閨房術(けいぼうじゅつ)」、「術」と言う範疇(はんちゅう)に入るからには、修練を積んでその「術」を自在に操れる様になる事が要求される。

つまり大げさに言えば、「閨房術(けいぼうじゅつ)」と言う性技が、氏族の女性に課せられたひとつの習得すべき積極的な技(わざ)だった。

殿方が武勇を競って領地を広げるなら、女性(にょしよう)の戦場(いくさば)は寝所(寝屋)だった。

寝所(寝屋)での事に、正妻と妾妻の分け隔ては無く「如何に殿方を喜ばせるか」の性技勝負の場に成る。

大胆かつ濃厚な性技で殿方を極楽浄土に導き、子種を授かるのが女性(によしょう)の勤めで「手柄」である。

時代により女性の性に対する価値観も違って当り前で、血統を唯一の特権の証明として受け継いできた氏族の女性にとって、この理屈に疑いなどある訳がない。

まず、当時の社会では性技は花嫁の必須条件で、十五歳と言えば嫁入りの時に性技の心得は充分に教わる。

何人もの妾妻を持つ事が普通の世界だったから、「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」を駆使して殿方を喜ばせ、殿方に気に入られる事から寝所(寝屋)での戦は始まる。

どちらかと言うと正妻は政略結婚で、妾妻は殿方に気に入られての事であるから、実は正妻ほど「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」を駆使して殿方を喜ばせないと、この勝負は気に入られている妾妻に負けてしまうから切実なのである。

そして当時の氏族社会は極端な「血統主義社会」であるから、殿方の種を受け入れ世継ぎを懐妊・出産する事が女性(にょしよう)の勝利だった。

現在の解釈など通用しないのが、歴史である。

氏族の娘にとって「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」は勝つか負けるかで、殿方の武芸武術に相当する手段だった。

恋愛は精神的もので、当時の肉体的接触は、かならずしも恋愛とは一致しない手段である事が常識で、その事を現代の女性に「昔の女性の扱いは悪かった」と同情される謂われも無い。

現代では、女性の肉体を目的達成の手段にするなど、理解され難い事だろう。

しかし親子兄弟でも領主の座を争い、たとえ叔父甥の間柄でも、隙あらば領土拡張の的にする氏族の価値観である。

「殺し合いをしても領土を手に入れる」と言う究極の価値観に生きる者達には、女性の肉体は「領土拡張の道具」と考えられても不思議な事ではない。

つまり、殺し合いも女性の色香も目的達成の手段で、当時は異常な考え方ではなかったのである。

そこの価値観の違いを分けて懸からない事には当時の女性の心情は理解出来ないし、奇妙な現代風の恋愛時代劇が成立してしまう。

しかし良い加減なもので、恋愛時代劇が成立してその物語を楽しみ、女性の敵かのごとくに拘(こだわ)る筈の妾妻と主人公の殿方との恋愛を美しく描いて楽しむ矛盾もロマンチックに受け入れてしまう。

「閨房術(けいぼうじゅつ/性行為の技)」も含めて男女の仲は添ってから育むもので、精神愛まで達した仲が本当のゴールである。

本来一致させるのが難しい精神愛と性愛を、現代女性の願望を満足させる為に金儲けでロマンチックに歴史が歪められるのはいかがなものか?

さて、織田信長と濃姫の「閨房」における夜合戦であるが、当時、殿方の心を繋ぎ止めるのは、「女性の閨房術の腕次第」と言う事になっていたからその心得をもって濃姫は織田家に嫁ぎ来た。

つまり「気が強かった」と言われる濃姫の方は、その為に嫁いで来ている。

そこに持って来て相手は「天下の虚(うつ)け者(常識の破壊者)」信長である。

何事にも創意工夫実験好きが信長像であるから、その二人の行為が「かなり奇抜であった」と想像に難くないが、いかがか?

濃姫について、余り文献が無い事から「早くに亡くなった」とか、「病死した」とかの説があるがそうは思えない。

濃姫の血縁があっての、この物語の成立と思えるからだ。

元々女性の事は書き残してこなかったのが日本の文献の実態で、資料が少ない事に不思議は無い。

しかしながら、信長の美濃攻略成功後、濃姫が従弟の明智光秀の存在を信長に紹介したのが、「二人を引き合わせたきっかけ」とするのが自然で有る。

他に、越前朝倉家に居た明智光秀をわざわざスカウトする「接点は無い」と思われる。

江戸期以前は、戦乱が永く続いた事や男系重視で男性主導の社会環境(女性には奥ゆかしさが求められていた)に置かれていた事もあり、女性を書き残した文献は少なく、名さえ判明しない事も多々あり、誰々の女(娘)、誰々の室(妻・妾)と言った表現が多く、その日常や消息を伺い知る手がかりは少ない。

か、と言って、彼女達が男の只々言う事を聞いていただけの存在ではけしてない。

その時代の生活様式に乗っ取っただけで、男の行動はすべからく女性に影響を受けているからである。

明智光秀は、自分で売り込んだのではなく、信長に書状で召し出されている。

その事から、濃姫は健在で有り「安土殿」と呼ばれた女性が、濃姫の事ではないだろうか?

その「安土殿」は本能寺の変以後も生き延び、千六百十二年(慶長十七年七月の初旬)に七十八歳で逝去、「養華院殿要津妙玄大姉」という法名で大徳寺総見院に埋葬されている。

★時代が異なれば「宗教観や性への考え方」も違う。

当ブログ・「皇統と鵺の影人検索キーワードダイジェスト集」は歴史関連記事で、時代に沿った記事内容が現代の社会風俗と比較すれば、当然異なる場合がある。

しかしその内容を、「歴史論」では無く個人が持ち合わせる「感情論」で評価されても議論は噛み合わない。

つまり、歴史的事実と言う「理性」では無く現代の風俗意識で判断する「感性」のみの判断基準で非難するのは品格に劣る稚拙な行為である。


詳しくは【私の愛した日本の性文化】を参照。


性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。


◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2008-05-15 15:48  

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