田原坂(たばるざか)の激戦
熊本城を包囲して攻めていた所に官軍小倉連隊の援軍がやって来た為、これを阻止せんと植木町・田原坂に陣を張り迎え撃つ事にした。
田原坂(たばるざか)は標高差六十mのゆるやかな坂で、一の坂、二の坂、三の坂と頂まで長さ一キロ半の曲がりくねった道が続く。
この道だけが唯一大砲を曳いて通れる二間(三~四m)ほどの道路幅であり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は薩軍(西郷軍)に包囲された熊本城まで進めなかった。
明治十年三月四日、薩軍(西郷軍)に取っては進軍の、官軍にとっては熊本城篭城軍の生死を制する道であり、ともに戦略上の重要地でこの在ったが為に南下して熊本城を目指す官軍小倉連隊とこれを阻止せんとする薩軍(西郷軍)がこの平凡な坂道を激戦の舞台とした。
この田原坂の攻防が、三月四日~二十日までの十七昼夜に及び、一進一退の攻防を繰り返し両軍合わせて一万人余の戦死者を出した西南の役最大の激戦地と成った。
三月二十日に到って官軍は総攻撃をかけ薩軍の防衛陣はついに陥落、薩軍は田原坂の激戦に敗れて熊本城の包囲を解き、矢部(熊本県)に退き、人吉・宮崎・都農(つの)を経て五ヶ月、八月二日、薩軍(西郷軍)は宮崎県延岡に転戦する。
西南戦争最後の激戦は延岡・無鹿近くの「和田越の決戦」で、その和田越の決戦に敗れた薩軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置き、西郷は解軍の令を出す。
その後薩軍(西郷軍)は官軍包囲を可愛岳(えのだけ)越えで突破、九州山地を敗走して山岳逃避行は故郷・鹿児島城山まで半月近く続く。
いずれにしても西郷隆盛は、最初からこの「西南の役」で薩軍が勝てるなど思ってはいなかった。
つい先程まで、「西洋の列強国に負けじ」と、日本の軍に最新式の装備を急いでいたその張本人が他ならぬ西郷隆盛その人で有る。
つまり、帝国軍全軍の総指揮を執るべき立場にあったのが、只一人の軍最高位、陸軍大将・西郷隆盛である。
薩摩軍の装備の大幅な見劣りなどは、先刻承知の事であった。
政府軍と薩摩軍では、使用した銃一丁取っても格段の差があった。
政府軍で使用したのは最新鋭のスナイドル銃で元込め式である。
対する薩摩軍は、旧式の先込め銃のエンペール銃で、発射後、筒先に玉を込めなければならず、次の発射準備の手間にロスが大きい。
大砲なども政府軍とは数や性能に大差が有った。
この戦、戦場では薩軍が決定的に不利で有ったのだ。
田原坂と言う歌の「雨は降る~降る~人馬は濡れる」の一節「人馬」は実は間違いで、「陣場」が正解であり、「先込め銃が濡れて役に立たない薩摩軍の悲哀を歌っている。」と言う説が有る。
この「西南の役」薩摩軍の敗北を境に不平士族は武力抗争をあきらめ、言論による民権運動の方向に不平を転換して行ったのだ。
【可愛岳(えのだけ)】に続く。
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