柳沢吉保(やなぎさわよしやす)
当初、館林藩主をつとめていた綱吉に小姓として仕え寵愛を受け、藩主・徳川綱吉が第五代将軍となるに随(したが)って当時柳沢保明(やなぎさわやすあき)を名乗っていた吉保(よしやす)も幕臣となり小納戸役に任ぜられる。
この綱吉の柳沢保明(やなぎさわやすあき)の寵愛振りから、当時の慣習に拠る近習(稚児小姓)の男色(衆道)関係も疑える。
将軍・綱吉の寵愛により柳沢保明(やなぎさわやすあき)は、頻繁に加増され千六百八十八年、大老に拠る合議制から将軍親政をもくろむ綱吉に引き立てられて、新設された側用人に就任し禄高も一万二千石と加増されて大名に昇る。
二年後に二万石加増して三万二千石、その四年後には四万石加増されて七万二千石・老中格の武蔵国・川越藩主(埼玉県川越市)となる。
その後柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、綱吉の諱の一字を与えられ、それまで名乗っていた柳沢保明(やすあき)から柳沢吉保(やなぎさわよしやす)と名乗っている。
俗説によれば、側室の染子はかつて綱吉の愛妾であり綱吉から吉保にお下げ渡しされた「拝領妻である」とも、懐妊した側室・染子を護る為に、柳沢吉保が表向き自らの妻子として「母子の身柄を預かった」とも言われている。
事の真相は定かではないが、柳沢家が異例の松平の姓を綱吉から許され、柳沢家を「連枝(将軍家血筋)の待遇」とした。
その為に、柳沢家の家督を譲った長男の柳沢吉里(やなぎさわよしさと)は「綱吉の隠し子である」とも言われ、染子が吉保の側室になってからも息子・柳沢吉里(やなぎさわよしさと)の顔を見に柳沢私邸を訪れる将軍・綱吉は、側室・染子を「綱吉の寝所に召される事が多かった」とされている。
綱吉と吉保(よしやす)が男色(衆道)関係であれば、一人の女性(にょしょう)を共有しても然したる抵抗は無いかも知れない。
その側室・染子の閨房(けいぼう/性行為)での睦言が、将軍・綱吉を側用人柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が「操っていた」とされ、将軍が大奥に泊まる際には、同衾する女性とは別に大奥の女性を二名、「御添い寝」として将軍の寝所に泊まらせて寝ずの番をさせ、その夜に何が起こったのかを「尽く報告させる事とした」と伝えられている。
この「御添い寝」は明治維新で「江戸幕府が滅亡するまで続けられた」と言う。
尚、元禄赤穂事件の裁定を主導したのが、この柳沢吉保だった。
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