醍醐(だいご)寺・仁寛僧正と「千手丸事件」
当然ながら見蓮(もくれん)は勘解由小路(かでのこうじ)党の手の者、草である。
この真言立川流、今の時代ではとても理解されないが、当時、素朴な民衆を矛盾無く導く為に、性に対していたずらに禁欲をさせるより、「肯定した上で民意をリードしよう」と言う考え方があった。
つまり宗教上、人類の「種の保存」と言う基本的本能をどう導き、どう処理するのかは、支持を得て信者を増やす為に、勘解由小路党としても重要な事だった。
醍醐とは仏教用語で非情に手間の掛かる貴重な牛・羊乳化工品の食べ物で濃厚な肉汁の甘みを有する食べ物の事である。
醍醐味はこの貴重な牛羊乳化品の味を指し、それが転じて醍醐味は「貴重な」とか「真髄」と言う意味に転用されて、帝の名前に用いられるようになった。
真言立川流の基本になった醍醐(だいご)寺三宝院の秘伝奥義を見蓮(もくれん)に伝授したのが、伊豆に流刑になっていた仁寛(にんかん)僧正である。
この二人の出会い、偶然でも何でもない。
伊豆に配流され、大仁に住まいし仁寛(にんかん)僧正の動静を探る為に、白河上皇に命ぜられた勘解由小路党の草、立川の陰陽師・見蓮(もくれん)が近付いて、ミイラ取りがミイラになった図式で有る。
勿論、見蓮(もくれん)は勘解由小路党の手の者であるが、見張るべき仁寛(にんかん)僧正は村上源氏流であり、同じ真言宗の僧籍最高位「阿じゃ梨」である。
更に、仁寛僧正の兄の「勝覚僧正」は、真言系修験道の総本山である醍醐寺三宝院の開祖で、醍醐寺座主である。
言わば尊敬してやまないあこがれの師の見張をさせられた様な物で、見張ると言うより直ぐに心服してしまった。
つまり、結果は最初から判っていた様な物である。
真言密教立川流の始祖と言われ、立川流開祖見連(もくれん)に奥義を授けた仁寛(にんかん)僧正の伊豆配流が、永久元年(千百十三年)と言うから、八幡太郎源義が「後三年の役」と言われた奥州攻めを公務と認められず、自腹で恩賞を配り、寂しく没してから数年後の事である。
仁寛僧正は、村上天皇の皇子、具平(ともひら)親王の子師房(孫)が臣籍降下して源氏朝臣(げんじあそみ)を賜姓し、始まった村上源氏の血を引く有力貴族の出自である。
仁寛は、後三条天皇の遺命により第三皇子輔仁(すけひと)親王の「皇太弟(幼少よりの側近)」として祖母から英才教育を受けていた。
余談だが紫式部が源氏物語に登場させた「光源氏」のモデルは、この具平(ともひら)親王説がある。
仁寛の父はその村上源氏の嫡流の源俊房で、左大臣の位を持っていた。
また叔父の顕房は右大臣、従姉妹の中宮賢子は白河天皇(第七十二代)の皇后で堀河天皇(第七十三代)の母にあたる。
正に権力の中枢に居る皇統出の高級貴族なのだ。
仁寛の兄の勝覚は、真言宗の歴史の中でも大変に重要な高僧である。
と言うのも、彼こそが真言系修験道の総本山である醍醐寺三宝院の開祖で、醍醐寺座主である。
仁寛は、この兄の勝覚の弟子となり、真言宗の教学を学び、真言宗の僧の最高位である「阿じゃ梨」となる。
そして、後三条天皇の第三皇子で、天皇位につく事が確実視されていた輔仁(すけひと)親王の護持僧となるのである。
後三条天皇は、摂政、関白を独占していた藤原氏一族を遠ざけ、左大臣に源俊房、右大臣に源師房を就任させた。
村上源氏を取り立てる事で、中臣(臣王)藤原氏に対抗する皇統重視の権力独占を図って天皇親政へと向かい、院政の時代が始まる。
後三条天皇(第七十一代)は自分の次の天皇として皇子だった白河天皇(後に上皇・法皇)(第七十二代)を据え、同時に、その次の天皇には、白河天皇の弟にあたる先の第三皇子輔仁(すけひと)親王を据えるように遺言したのである。
しかし、白河天皇は色々と理由を付けて自分の幼い子の堀河天皇(第七十三代)を据えた。
所謂(いわゆる)「白河院政」の始まりである。
白河上皇は、堀河天皇即位の時周りを納得させる為に、「次には輔仁(すけひと)親王を天皇位につけてやる。」と約束していた。
しかし堀河天皇が夭折すると、白河上皇(法皇)は約束を破りわずか五歳の鳥羽天皇(第七十四代)を即位させてしまう。
自分の院政の権力を守る為に、父の遺言時の約束とその後の弟との約束を、二度も反故にしたのである。
この時、村上源氏の一族は、輔仁(すけひと)親王が天皇位に就く事を期待して親王を支持していた。
それに、村上源氏の源俊房を左大臣、弟の顕房は右大臣と優遇してくれた「後三条天皇(第七十一代)の遺言」が反故にされては当然不満である。
この為に勘解由小路党は、白河上皇の命令で、意に沿わない仕事をしている。
仁寛僧正の伊豆流刑は、実は余りにも不可思議な事件が発端だった。
鳥羽天皇(第七十四代)が即位してから六年後の千百十三年の事である。
白河上皇(第七十二代)の内親王・令子の御所に匿名の落書が投げ込まれた。
内容は「輔仁(すけひと)親王と村上源氏が共謀して天皇暗殺を計画している」と言うものである。
更にこの落書には、「暗殺実行犯として、千手丸なる童子の名が書かれていた。
この千手丸は、醍醐寺三宝院で仁寛の兄の勝覚に仕えていた稚児だった。
所謂「千手丸事件」である。
余談だが、当時の神道や仏教界の「信仰要素」として、稚児(ちご)は男色(衆道)の交わり相手で、当然ながら「千手丸事件」の千手丸は勝覚僧正の寵愛を得ていた事になる。
この時代の僧侶に仕える稚児は衆道(男色)の相手を務める事が普通だったから、千手丸は高僧・勝覚僧正に愛玩されていた少年で、村上源氏の一族を牽制する為のスキャンダルとしては申し分が無い。
つまりこの「勝覚僧正と深い仲の衆道(男色)稚児」と言うのがポイントで、現在の「僧院に仕える千手丸なる只の童子」と言う感覚で千手丸の存在を捉えると状況を見誤る。
当然の事ながら、勘解由小路党と醍醐寺は同じ密教修験として深い繋がりがある。
しかし白河上皇の命は無視できない。
そこで妥協案を考え、仁寛(にんかん)に犠牲になってもらう最小範囲の連座に止める事にした。
千手丸は検非違使に捕らえられて尋問の末、「仁寛に天皇を殺すように命じられた」と白状した。
仁寛も捕らえられて尋問を受け、当初彼は否認したが六日目には自白したされている。
=>仁寛僧正も捕らえられて尋問を受け、当初仁寛はその暗殺指示を否認したが、六日目には自白させられている。
仁寛は伊豆に、千手丸は佐渡に流罪となった。
それにしてもこの、事件は不自然極まりない。
「天皇暗殺計画」と言う普通なら親族縁戚に至るまで類が及ぶ大事件にも関わらず、何故か罰を受けたのは仁寛と千手丸だけである。
この事件によって、輔仁親王と村上源氏の力は大きく削がれたが、二人以外特に罰は受けていない。
千手丸の師、勝覚僧正すらお咎めは無かった。
仁寛の取調べの時も、白河上皇以外の公卿達はあまりにも見え見えの茶番劇に「全く処分をやる気の無い様子だった」と言う。
それに、「暗殺計画自体が余りに杜撰すぎる。」と言うのも、勘解由小路党の仕事に最初から手抜きがあり、逃げ場を作っていたからである。
要するに、これは白河上皇(第七十二代)が「自らの院政継続の為に仕組んだ陰謀だったのではないか?」と言う事だ。
邪魔な輔仁(すけひと)親王と村上源氏の力を削ぐ為に、嘘の自白をさせ、事件をでっちあげたが、流石に輔仁(すけひと)親王達には直接手を出さず「仁寛(にんかん)だけを罰した」のは、修験道・勘解由小路党の「組織力に遠慮した」と憶測される。
仁寛僧正が伊豆配流後僅か五ヵ月ほどで断崖から身を投げた背景は、わが身の不幸を嘆いたのでは無く全てを一身が背負う事で天皇家のお家騒動を決着させ、輔仁(すけひと)親王と村上源氏一門を温存する計算が働いた上の覚悟の自害だったのではないだろうか?
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