保元の乱(ほげんのらん)
弟の前帝・近衛天皇が崩御した為、雅仁親王の息子の守仁親王に世継ぎが廻って来たのだが、守仁親王がまだ幼かった為に、千百五十五年(久寿二年)に守仁親王即位までの中継ぎとして雅仁(まさひと)親王が第七十七代・後白河天皇として二十九歳で即位した。
平安末期の千百五十六年(保元々年)、前々々帝(第七十四代)鳥羽法皇が死去すると崇徳天皇(すとくてんのう/後に上皇)絡みの「保元の乱」が発生する。
「上皇と天皇が争う」と言っても、実際に動くのは武士達である。
崇徳上皇の命を受けた源為義、為朝(義朝の父)、平忠正(清盛の叔父)らの動きを後白河方が、諜報機関勘解由小路党の働きで察知、後白河天皇に付いた平清盛、源義朝(頼朝の父)達が崇徳上皇方の集合場所を急襲、不意打ちをして、動きを封じた。
崇徳上皇方は大敗をきっし、源為麻、平忠正は処刑、崇徳上皇は「「讃岐」に流配刑となった。
勘解由小路党は、この時から後白河天皇のもっとも身近な手駒として活躍する。
この争いの中に、源姓、平姓が双方に出てくるが、実は親子、叔父・甥がそれぞれに分かれて戦った残酷な戦いであった。
保元の乱で功績のあった源義朝と平清盛の二人だが、平清盛とその一族に比べ、源義朝とその一族に対する恩賞が薄かった所に隠された何かが有るのだろうか?
藤原氏の勢力が衰える中、清盛平家が、呪詛託宣の名家・土御門(安倍)家の名声を利用して「藤原・源氏ラインを天皇から遠ざけた」のではないのだろうか?
勿論、藤原氏と繋がりの濃い源氏が「敬遠された」と言う側面はあるが、それだけだろうか?
或いは清和源氏(河内)の系図が、その時点では成り上がりの「後付け系図」だったからかも知れない。
つまり武士として力はあったが、河内源氏はかなり下位の貴族の出自だった可能性がある。
「保元の乱」から二年後の千百五十八年(保元三年)後白河天皇は守仁親王を第七十八代・二条天皇として帝位を譲位する。
所が二条天皇の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも藤原f信西と藤原信頼の間に反目が生じるなどし、その対立が千百五十九年(平治元年)に頂点に達し「平治の乱」が勃発する。
この「平治の乱」で源義朝らを破った平清盛が、強力に権力を握り始めるのである。
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皇統と鵺の影人
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