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公家(くげ)・・殿上人(てんじょうびと/うえびと)・堂上家(どうじょうけ)

源(土御門)通親は村上源氏嫡流に生まれたが、源氏と言っても武家(ぶけ)ではなく後胤貴族・村上源氏は公家(くげ)の名流である。

公家(くげ)とは、武家(ぶけ)に対する言葉として京都の朝廷を構成する貴族・官人の総称で、元来は天皇または朝廷を指して「こうけ」または「おおやけ」と呼んでいた。

鎌倉時代以降、武力で帝(みかど/天皇)に奉仕する幕府を「武家(ぶけ)」と称するようになると、それに対比して朝廷において政務一般をもって帝(みかど/天皇)に奉仕する文官一般を「公家(くげ)」と呼ぶようになった。

殿上人(てんじょうびと/うえびと)・堂上家(どうじょうけ)は、日本の官制において五位以上の者の内、天皇の日常生活の場である清涼殿南廂へ昇る事を許された者の事を指し、この清涼殿の殿上の間(ま)に昇る事を昇殿(しょうでん)と言う。

公家(くげ)とは、昇殿(しょうでん)を許された「堂上家」と「地下家」から広義に構成されるが、一般的には堂上家を指して公家(くげ)としている。

つまり殿上人(てんじょうびと/うえびと)と昇殿を許された「堂上家」と公家(くげ)は、言い方は違うが意味は一緒である。

官職としては、令外の官・摂政、関白と太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議に就く血統の家柄で、家格としては、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家の区別があり、古くからある家を旧家、文禄慶長以降創立の家は新家と呼ばれ、江戸幕府の幕末には百三十七家の多くを数えるに至っている。

平安時代末期ごろから貴族社会において公卿に昇る家柄が限定されるようになり、藤原北家による摂家の確立に伴って家格が固定化し、鎌倉時代前期ごろまでに公家社会の基礎が形成された。

摂政関白をはじめ、太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議・近衛大将・大弁以下~の官職名を家柄により世襲した為、この公家社会においては、家格によって昇進できる官職が定まっていた。

但しこの官職を公家(くげ)に限定されず、朝廷より有力武家(ゆうりょくぶけ)にも与える事によって、朝廷の権威を維持すると同時に武家(ぶけ)の権威を認める事で双方の存在を担保し合う形式が採られていた。

鎌倉に幕府が成立しても、実はまだ公家(くげ)の出番は在った。

鎌倉時代を通じ、主に軍事警察権と東国支配を担当する武家政権(鎌倉幕府)に相対して、政務一般と西国支配を所掌する公家政権(朝廷)が共存して存在しており、両政権がおおむね協調連携しながら政務にあたっていた。

しかし鎌倉幕府ができて以降大政は武家に移り、「後醍醐天皇建武の親政」や南北朝並立などの動乱を経ながら公家(くげ)の職権は序々に空虚と化して室町時代には幕府および守護によって公家政権の権限が侵食されて次第に有名無実化の道を辿って行く。

江戸時代に入ると、公家社会は幕府から保護を受ける事となったが、反面、天皇と公家を規制する「禁中並公家諸法度」が定められ、これにより江戸時代の公武関係が規定された。

公家社会は幕末まで温存されたが、
明治維新期に解体され公家のほとんどは華族身分へ移行した。

平安時代末期に官庁街である大内裏が消滅して以降、庁舎内で会議や事務が行われるることはなくなったが、太政官や各省のポスト(役職名・肩書き)だけは明治維新を迎えるまで残った。

公家(殿上人)の家名一覧】に続く。

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by mmcjiyodan | 2008-07-01 05:32  

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