阿波徳島藩・蜂須賀家三代記
阿波徳島藩・蜂須賀家である。
蜂須賀家は、尾張の国海東郡蜂須賀郷の小国人領主であって、勿論夜盗の棟梁ではない。
豊臣家恩顧の大名、それも秀吉が織田家で頭角を現す手助けをした有力な最古参の家臣だった蜂須賀家でありながら、唯一徳川家の粛清を逃れ生き残る離れ業を成し遂げた。
この事には、蜂須賀小六正勝の長男・蜂須賀家政の存在に負う所大である。
蜂須賀小六正勝は、嗣子・家政の正室には先祖からの縁戚である生駒家・生駒家長の娘を娶合わせている。
つまり蜂須賀家と豊臣家とは、縁戚でも有った訳である。
にも拘らず、豊臣秀吉の最古参臣・蜂須賀家が大々名になったのは意外に遅く、千五百八十五年(天正十三年)になった頃である。
蜂須賀小六正勝は四国征伐の後、播磨国龍野(二万石)を領していたが、秀吉の天下統一における戦争に従軍し戦功を挙げていた。
雑賀攻めの後に行なわれた四国征伐では、阿波・木津城攻め、一宮城攻めなどで武功を挙げ、四国征伐後その戦功により秀吉より阿波国を与えられた。
しかし蜂須賀小六正勝は、高齢を理由に嗣子・家政に家督を譲り、長男・蜂須賀家政が阿波国の大半を賜った。
現代でも言える事だが、人生なんていずれにしても運否天賦である。
一歩間違えれば野垂れ死にしたかも知れない異能の者共が豊臣秀吉の所に集まって来て、主君・秀吉の出世と伴に頭角を現し、それなりに五万石、十万石、二十万石の所領を得てひとかどの武将になっていた。
人間の能力何てそんなに差がある訳ではないから、石田三成、福島正則、小西行長、加藤清正、黒田長政、浅野幸長、大谷吉継など皆「従う相手が当たりだった」と言うべき幸運の持ち主だった。
となれば、秀吉が漸く信長の下で頭角を現した頃から従っていた蜂須賀小六正勝にして見れば、後輩の石田三成、小西行長、加藤清正、福島正則らに所領で追い抜かれた不満は在ったのかも知れない。
最古参故に、本来なら真っ先に処遇すべき功労者の蜂須賀家を、「処遇が軽くても付いて来る」と甘く見て、他の武将の取り込みを優先したのかも知れない。
厳密に言うと、この阿波入封当時に賜った石高は十七万五千石で、板野郡の一部が他領であり「正身の阿波一国ではなかった」と伝えられている。
その蜂須賀家は、千五百九十八年(慶長三年)に秀吉が死去し、翌年に前田利家が死去すると豊臣家内も混乱に直面し、石田三成嫌いの蜂須賀家政は福島正則や加藤清正、浅野幸長らとともに官僚派の石田三成に敵対し、嗣子の蜂須賀至鎮(よししげ)と徳川家康の養女の縁組を結ぶなど、典型的な武断派・親徳川家康派の大名として活動している。
秀吉最古参の幹部である蜂須賀にして見れば、後からのし上がった石田三成に指図されるのは面白くなかった事は容易に想像できる。
その上佐和山城主・石田三成の石高は、徳島城主の蜂須賀家政よりも二万石ばかり上である。
千六百年(慶長五年)に到って石田三成主導の豊臣家と徳川家が対立を強めると、蜂須賀家政は否応なしの生き残りの選択を迫られる。
豊臣秀頼への忠誠という石田三成の掲げる大義名分と現実の徳川家康の力との板ばさみとなり、蜂須賀家政は領地を豊臣秀頼に返納し出家の上、高野山に入り表面上は中立の立場を取りながら、旗色を鮮明にしない。
豊臣家と徳川家の対立が決定的に成り関ヶ原の戦いが起こると、豊臣氏恩顧の大名である蜂須賀家政は病気として出馬せず、西軍に対しては軍勢だけを送り大坂久太郎橋・北国口の警護を担当して関が原への出兵を避けた。
しかし、家康の上杉景勝征伐に同行させていた家政の嗣子・至鎮(よししげ)は、至鎮の妻が小笠原秀政の娘で徳川家康の養女(万姫)である事を理由に関ヶ原の本戦で東軍として関が原戦に参加して武功を挙げた。
この時点では、蜂須賀至鎮(よししげ)は所領失領の浪人状態で、蜂須賀家郎党を率いて家康の東軍に参加していた事になる。
この策謀が功を奏し、関が原戦後に家政の嗣子・至鎮(よししげ)は、家康から旧所領・阿波一国を安堵されるが、家政は西軍についた責任を取る形で剃髪して蓬庵と号し、家督を子・至鎮に譲って隠居する。
この辺りの蜂須賀家の動きを見ていると、秀吉は最古参の臣・蜂須賀家の処遇を誤ったのではないだろうか?
人間は成功によって慢心すると己だけの才覚と思い勝ちで、苦しい時に手助けした古参の部下の恩義を忘れ勝ちである。
前田家ほどとは行かなくても、せめて五十万石ほど家政に与えて息子・秀頼の行く末を頼んでいれば、風向きは変わったかも知れない。
しかし秀吉は、最古参の臣・蜂須賀家を中途半端に処遇して家康に取り込まれてしまった。
すっかり家康の傘下に入った蜂須賀至鎮(よししげ)は、千六百十五年(元和元年)の大坂の陣での活躍めざましく、二代将軍・徳川秀忠より七つもの感状を受ける働きをした。
この武功に拠り至鎮(よししげ)は、淡路一国八万千石の加増を与えられ、都合二ヵ国二十五万七千石を領する大封を得て徳島藩・蜂須賀家が成立したのである。
家祖・蜂須賀小六正勝の子、蜂須賀家政が阿波の国を与えられて以来、徳島は十四代に亘って蜂須賀家に治められて来たのだが、蜂須賀家は一貫して領内の運営に力を入れ、中央の政治には色気を出さずに家を守る生き方をした。
領内の産業育成に力を入れた徳島藩では吉野川流域での藍の生産が盛んで、吉野川流域の水上運輸や海運も盛んで諸国との交易は隆盛を極め、川並衆出自の面目躍如である。
特に十代藩主・重喜の時代になると徳島の藍商人は藩の強力な後ろ盾により全国の市場をほぼ独占するに至った。
藍商人より上納される運上銀や冥加銀は藩財政の有力な財源となり、阿波徳島藩は石高二十五万七千と言われるが、阿波商人が藍、たばこ、塩などで得た利益を合算すると四十数万石相当の江戸期においては群を抜く富裕な藩だった。
政争、政治的野心を戒めた阿波徳島藩は幕末の狂騒とは無縁のまま、蚊帳の外で王政復古(明治維新)を迎えた。
千八百七十一年(明治四年)徳島城は廃藩置県とともに徳島県なり、城郭が取り壊されて石垣と庭園とわずかに鷲の門が残されているのみである。
しかし、蜂須賀家の産業育成政策は徳島の繁栄を成し、江戸期には人口四十万人と屈指の大都市に成長し、廃藩置県後に成立した阿波商人達の私銀行も大阪や東京に次ぐ大資金量だった。
千八百八十四年(明治十七年)蜂須賀家は侯爵となり華族に列して家名を永らえている。
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