源義経・一ノ谷(城戸の戦い)の奇策「ひよどり越えの逆落とし」
それは直感的なもので、あまり理論的ではない。
しかし、戦場の「待ったなし」の状況の中で、瞬時に相手の思い拠らない正解を導き出すその能力は、後にも先にも彼一人である。
この戦略、勘解由小路・吉次の手の者、武蔵坊弁慶達比叡山延暦寺の修験者(山伏)が参謀として的確な助言をしたもので、若い義経一人の独創ではないが、それを取り入れて、自らも先頭に立ち、戦闘を為し得たのは義経の才である。
つまり、状況判断と決断である。
どこの部分が弱いか、いつが攻め時か、どんな攻め方が有効か、これを瞬時に判断する。
どちらかと言うと「即応自在型」で、戦略ではなく戦闘の天才だった。
だが、現代の目で分析して見ると、平家の方が「世間知らず過ぎた」様である。
一ノ谷(城戸の戦い)の決戦を例に取ると、平家方には大胆な奇襲である。
しかしこの奇襲、源義経と平家方には温度差がある。
つまり都人(みやこびと)の生活に慣れた平氏の常識では、裏山の急な斜面は要害であった。
しかし、その考え方は公家化した人間の常識で「思い込んでいた」だけの勘違いである。
考えてみると、普通人間でも急斜面では四足になる。
四足は急斜面では二足歩行の人間より遥かに安定している。
義経は若い頃奥州平泉の藤原家で育った。
奥州は蝦夷馬(南部馬)の産地である。
関西の馬に比べ、蝦夷馬(えみしうま)は体格も良く、力も強かったから、前九年の役当時の源頼義以来源家(氏)の武将はもっぱらこの馬を使っている。
この馬は奥州の特産で有ったから、到る所に牧(まき)があり、放牧されていた。
奥州藤原家に身を寄せていた若き義経も、それを見る機会には恵まれていたはずで、急斜面をものともせずに上り下りする蝦夷馬を目撃していたはずである。
元来四足歩行動物は、人間が考える以上に斜面には強い。
従って、今日の日本人が思うほど、義経の決断はそれ程大したものではない。
大概の人間には思考範囲に於いて錨(いかり)を降ろして既成概念化する「アンカリング効果(行動形態学上の基点)」と言う習性が存在し、中々既成概念(錨/いかりの範囲)から抜け出せないので進歩し無いのである。
同時に人間には「意識と行動を一致させよう」と言う要求(一貫性行動理論)がある。
つまり何かを出来る出来ないは、意識と一致していないから「出来ない」と言う判断をするのである。
つまり一ノ谷(城戸の戦い)における平家軍の背後の断崖の判断は、「思い込み」と言う事になる。
それらを考慮しても、源氏による平家追討は義経の天才的戦闘能力に頼る所が多かったのは、誰しもが認める所である。
【屋島の戦い(やしまのたたかい)】に続く。
【壇ノ浦の戦いと松浦(まつら)水軍】に続く。
【第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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