石田三成・関が原の敗因
多くの部将(大名)が、戦わされ損の目に遇った。
その時、秀吉の傍近くで権力を握っていたのが、石田三成である。
当時の神道や仏教界の「信仰要素」として、稚児(ちご)は男色(衆道)の交わり相手である。
豊臣秀吉の小姓から凡(およそ)そ二十万石の大名に立身した石田三成も、秀吉と出会ったのは寺(観音寺)で稚児小姓をしながら手習いをしていた十五~十八歳の頃の事で、秀吉が休息に立ち寄って三成を見出した事に成っている。
後の創作ではあるが、この出会いを題材に世に有名な「三献茶」の秀才・三成らしい「気働き」の挿話が残っている。
しかし、石田三成が「 稚児小姓」として秀吉に気に入られ、観音寺の僧侶から譲り受けられたのであれば、休息に立ち寄った寺(観音寺)で秀吉に献じたのは三杯の茶では無い事になる。
苦労して 外国の戦(文禄・慶長の役/朝鮮征伐)から帰って見ると、同僚の石田三成が、すっかり幅を利かせて、何時の間にか大きい顔をしている。
豊臣家の大番頭(大官僚)然として、豊臣家を差配していたのだ。
「何じゃ、自分は、太閤殿下の傍で悠々としくさって。」
「そうだ、そうだ、苦労して戦った我々の身にもなってみろ。」
三成は論理的秀才ではあるが、人心掌握は下手である。
不満が出ても、涼しい顔をしている。
「負け戦に、恩賞などあろうか。」
冷やかに判断して、相手の感情や能力を推し量ろうとはしない。自分の価値観で、押し通す。
なまじ多少学問が出来たり、上手く出世をすると、人間慢心が生まれる。
世の中で人と人がぶつかる切欠の多くは、主体性と客観性の「思考バランスの悪さ」からである。
主体性ばかりで思考すると、凡そ不満ばかりの人生になり多くの敵を造る事になる。
石田三成もそうした手合いで、秀吉に見込まれて出世を重ねるほど独り善がりなその慢心が強くなり、周りが見えなく成っていた。
それが信長ほどの天才で、相手が認めざるを得ない力量があれば別だが、三成は根が官僚肌でそこまでに至らない。
もつとも、厳密には、統一で味方ばかりになった国内に、与える領地が無い事もあって朝鮮を狙ったのだから、攻め取れない以上は恩賞の出し様が無い。
正直石田三成の生き方には庶民に共感を呼ぶ所はあるが、当時の南光坊(明智光秀)や徳川家康に取っては採るに足らない相手だった。
本人が大して力を持たない癖に周りに指示を出すと「トラの衣を借りる狐」と揶揄(やゆ)される。
もっともこの時代の求心力はあくまでも恩賞としての所領の獲得で、大名を潰してまで再分配するほどの力も、例え関が原で勝利しても豊臣政権の官僚(奉行職)と言うだけで所領が二十万石(十九万四千石)程度と中堅大名の三成には、恩賞を取り仕切れる絶対的な信用は武将達に無かった。
それを三成は、豊臣家の名で同格以上の者にまで強い態度で接し差配した。
人間は、困った事に「信じて居たのに裏切られた」と言う被害者意識を持つが、良く考えて欲しい。
「信じて居た」は、相手に対する一方的な思い込みで、それを持って「裏切られた」と恨むのは「甘えた筋違い」と言うもので、ここで考えて欲しいのは「主体の置き方」である。
即ち一方的に相手を信じて満足するのではなく、「相手に信じて貰える努力をして来たか」と言う事である。
これは夫婦間から仕事仲間までで通じる事だが、例え表面に出さなくても心の内で相手をバカにした時から「裏切られる危険性」は格段に増す。
貴方が嫌いな相手は相手も嫌いが相場である。
以心伝心は「対人関係の基本」で、本人は上手くやって居る積りでもその本心は態度の端々で相手に伝わるものである。
石田三成の悪い所は、学問は学んで利口になったがそれを絶対視して学問が新しい発想の原点に過ぎない事を忘れていた点である。
なにしろ三成は、小田原平定の支城・忍城(おしじょう)篭城戦で、大将として五倍を越える兵を指揮しながら攻め落とせなかった凡将である。
つまり理屈は合って居ても、世の中に通用し無い事は多々ある。
それでも困った事に、自らを利口と自覚する石田三成は、「何があろうとも相手が悪い」と言う傲慢な人間になっていた事である。
反面、良く考えて見れば石田三成に人気が無くて当然である。
彼は、豊臣諸大名に高クオリティを要求した。
その手法はワザワザ敵を作るようなもので、当然無骨一辺倒の大多数の現状派は、それを実現する自信の無さも有って反発する。
それを、「彼には人気が無い」と、一言でかたずけてはいささか不憫ではある。
唯、己の才に慢心した石田三成は、同僚の粗(あら)ばかり観ていた。
他人を批判的な目でばかり見ている者は、人間関係を壊し、良い人生は築けない。
当然ながら、そうした悪しき考え方は、言わずとも態度で相手に伝わり、味方を失う。
特に「指導的な立場に立とう」と志す者は、相手の良い所も合わせて評価する度量の心掛けが必要で、その配慮に欠け、批判ばかりして居る者は指導的立場で失敗する。
石田三成は同僚の恨みを一身に買うが、秀才故に敢えて放置してしまう。
これは、家康や天海(光秀)には勿怪(もっけ)の幸いである。
家康と天海(光秀)は、三成や豊臣(淀君)方がじれる様な仕打ちを繰り返し、米沢の上杉と光成に家康討伐の「のろし」を上げさせる事に成功する。
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