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屯倉(みやけ)

日本書紀」によれば、五百三十八年(安閑二年)屯倉(みやけ)の大量設置をうけて同時期に犬養部(いぬかひべ)は国々に設置された。

屯倉(みやけ)と言う呼称は、古墳時代に設けられた朝廷の建造物を指し、元々は「御宅(みやけ)」の意味だったが、やがて大和朝廷の朝廷直轄地(朝廷領)を意味する土地や人民の支配制度の意味と成った。

屯倉(みやけ)は、朝廷の地方支配の為の建造物と耕作地、そして兵の駐屯地を指し、当時は朝廷とは間接支配になる有力御門や有力豪族の支配領地も存在したから、そうした有力者の間接支配領地をけん制する形で地方に屯倉(みやけ)を配置していたのではないかと考えられ、我輩は「屯は駐屯を現し、倉は徴税を表す」と解釈する。

この屯倉(みやけ)は、継体大王(けいたいおおきみ/天皇第二十六代)に拠る中央集権化の行政組織改革の一環として、地方からの確実な税収確保と環視を兼ねた出先機関であるが、それにしても継体大王はこの屯倉(みやけ)制度のアイデアをどう思い付いたのか、それとも何処からか制度を持ち込んだのだろうか?

この継体大王(けいたいおおきみ/天皇第二十六代)の謎は後ほどこの物語で御紹介する積りである。

「大和政権が直接支配する」と言う事は、中央の出先駐屯機関である。

初期に入植した征服部族(有力御門や有力豪族)の入植地の「間接支配もその役わり」と考えられる。

現存する「ミヤケ」という地名と「イヌカイ」という二つの地名の近接例の多さから、犬養部と屯倉との間になんらかの密接な関係があった事が想定され、現在では、犬養部(いぬかひべ)は犬を用いて「屯倉(みやけ)の守衛をしていた」と言う説が有力になっている。

屯倉(みやけ)と鎮守(ちんじゅ)の関わりは不明だが、鎮守社(神社)を宮(みや)と呼ぶ事と関わりはあるのだろうか?

古文書の記述には、安閑天皇の前後から屯倉(みやけ)の設置記事が多く見られるようになるのだが、屯倉(みやけ)の発展に犬養部(いぬかひべ)の設置が大きく寄与していた事が考えられる。

屯倉(みやけ)が、初期大和朝廷の支配域の全国各地に設けられていた事から、土産(みやげ物)の語源は、この「屯倉(みやけ)からの品物」と言う意味説が有力で、我輩は「屯倉(みやけ)物」だと思っている。

なお、屯倉の広域展開が、後の「国・郡・里制の基礎と成って行った」との指摘もある。

継体大王(けいたいおおきみ)】に続く。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2008-09-24 21:45  

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