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継体大王(けいたいおおきみ・天皇)と大連(おおむらじ)大伴金村

大伴金村(おおとものかなむら)は、古墳時代(こふんじだい)から飛鳥時代の五世紀(四百年代)から六世紀(五百年代)にかけての大豪族(臣王・御門)・大伴氏の長である。

仁賢大王(にんけんおおきみ・第二十四代天皇)の死後の四百九十八年、武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)を即位させて自らは大連(おおむらじ)の地位についた。

五百六年、その武烈大王(ぶれつおおきみ・天皇)の死により皇統は途絶えたが、応神大王(おうじんおおきみ・天皇第十五代)の玄孫である彦主人王の子「男大迹王(おおどのきみ)」を越前から迎え継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)とする。

以後安閑・宣化・欽明の歴代天皇に仕えたと伝わり、その間に、百済から朝鮮半島の領地・任那四県(みまなよんあがた)の割譲要請があり、大伴金村は大連(おおむらじ)としてこれに深く関わり、任那四県(みまなよんあがた)の割譲を承認している。

継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)は、大豪族・大伴金村の後押しに寄って皇位に付いた経緯があり、当時の大伴金村の権勢は大王(おおきみ・天皇)をも凌(しの)ぐ勢いであった。

この時代の大豪族王、大伴氏(御門・臣王)や物部(もののべ)氏(御門・臣王)の祖先は、神話における「**の命(**のミコト)を基にする」と創作され、半島からの渡来の事実を消して、天皇家と同様「祖先に神をいただく」と言う事に成っていた。

例えば、大伴氏・臣王は高皇産霊(タカミムスビ)の命神を祖とし、物部氏・臣王は饒速日(ミギハヤヒ)の命神の子孫としている。

中臣氏・臣王(藤原氏)の祖、天児屋根(アメノコヤネ)の命神は祭祀を預かり、神と人の中を取り持つ意味があった。

いずれにしても、神と言う理解し難い存在をもって、被征服民に畏怖(恐れ)を抱かせる為の演出である。

彼らが、任那(みまな)時代からの王の枝分かれの血筋を引く王族なのか、別の大部族集団の長なのかは判らない。

継体大王(けいたいおおきみ・天皇)の前の天皇、武烈大王(ぶれつおおきみ・天皇第二十五代・葛城朝)に子供が無い為、皇統を繋ぐ必要から、越前(福井県)にいた応神大王(おうじんおおきみ・天皇第十五代)の五代(五世)孫に当たる男大迹王(おとどのおう/おおどのきみ)に擁立のお鉢が回って来て、継体大王(けいたいおおきみ・天皇)は即位したのである。

この継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の即位だが、ある疑いが囁かれている。

学者の説によっては、国内(越前)王族説を採らず即位の為に任那からやって来て、妻子が在りながら先々代の大王(天皇)、仁賢大王(にんけんおおきみ・天皇第二十四代)の娘・手白髪姫(たしらがひめ)を皇后に迎える「政略結婚をした。」と成っている。

つまり、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)が百済系任那から即位の為に招かれたのであれば、その後の継体大王(けいたいおおきみ)の対半島政策の非常に思い入れがあると思われる行動に納得が行くのである。

継体大王(おおきみ・天皇第二十六代)は、即位後二十年の歳月を掛け漸く大倭(後の大和国)の地に都を置く。

この二十年を費やす背景に、継体大王(おおきみ)の出自の不確かさが見え隠れしている。

都を置いた事で、漸くその地位が「不動のものに成った」と見え、その直後に継体大王(おおきみ)は半島の国・新羅に攻められた百済の救援に軍を送ったが、新羅と結んだ筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)により九州北部で「磐井の乱」が勃発し、その平定に苦心して百済の救援軍派遣にも苦労している。

日本書紀では筑紫君磐井(つくしのきみいわい)を反乱軍の扱いだが、実は大王(おおきみ)の権威が日本書紀の記述ほど当時は無かった可能性が考えられる。

当時半島において新羅は、任那と百済に取って共通の敵・侵略国家だった。

そりて列島に移植した任那と百済の王族達とその部族は、当然ながら故国の盛衰に一喜一憂していた筈である。

これはあくまでも仮説だが、筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)が神武朝の九州に定住した分家であれば、継体大王(おおきみ・天皇第二十六代)に「本家を乗っ取られた事への抵抗」とも、それ以前に皇統が変わっていれば正統性を掲げて「大王(おおきみ)即位の名乗りを挙げた」とも解釈できる。

当時の日本列島側では、その豪族達(王・御門)の出自を背景に半島側・新羅と百済の「列島側の延長代理戦争をしていた」と見るべきだろう。

いずれにしても筑紫君磐井(つくしのきみいわい・筑紫王)が新羅系豪族(王・御門)の「九州王だった」とする学者は多い。

継体大王(おおきみ/天皇第二十六代)が即位して、屯倉(みやけ)制度を始めとして様々な中央集権化の制度改革をした裏に、或いは少し進んだ半島の政権体制、「母国の制度を真似た」と言う疑惑が湧くのである。

一般論的にはそうした王位・皇位継承のトリックはありそうな話で、そもそも継体(けいたい)は字のごとく「継ぐ体」で、本来の「嗣(つぐ)」の字を用いず、わざわざ謚号(おくりな)にそうした意味合いの違う文字を付けたこと事態が、皇統の一貫性を疑問視されている。

その疑惑が本当なら、この後は「女系の皇統」である。

但しこの疑惑は、例え事実で在ったとしても皇統にとって満更悪い事ばかりではない。

建前に於いて、皇統は神の系図であるから観念的余人に替え難いもので、それが男系男子の皇位継承に拘る理由である。

所が、「種を残す」と言う生殖生命学の上では、男系男子の血統に拘るほど「虚弱精子劣性遺伝」と言う難問が控えている。

男系の精子はXY染色体に於いて傷が付き易く、その傷付いた精子の交配が何代も続くと「虚弱精子劣性遺伝」が加速して男系男子を懐妊させる能力を失う。

つまり皇統に於ける万世一系は観念的ものであるから、生殖生命学上は数代に一度は女系に婿を迎え、できれば健康で野生的な男系精子を取り入れる必要がある。

とにかく「何か」が起きたのだが、本当の所は全て憶測に過ぎない。

となると、継体帝の即位で大和朝廷は呉族系・葛城朝から加羅系・継体朝に代わった事に成るのか?

そして裏を返せば、それほど任那(みまな・加羅・加那)の地と大和(やまと・大伴氏臣王)は一体の物(同族王家の血)だった事に成る。

任那(みまな)国内も大陸農耕系加羅族と海洋系加那族(呉族)に分かれていて大伴金村、継体大王(おおきみ・天皇)、共に加那族系の血筋で、「親百済派・任那系」である。

そして、任那(みまな・加羅・加那)の一部割譲・・・。

この時点で任那(みまな・加羅・加那)の地は、まだ大和朝廷(加那系葛城朝)の支配地だったのである。

支配地だからこそ、任那四県(みまなよんあがた)を「割譲出来た」と言える。

しかしそれ以後、新羅の武力の前に任那は崩壊し、百済も新羅に圧倒されていた。

任那の相次ぐ勢力減少に伴って、任那出身者の日本列島への流入も多かった筈である。

詳しくは小論・【継体大王(けいたいおおきみ・天皇)即位のある疑い。】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-10-06 13:55  

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