八色の姓(やくさのかばね)
この身分制度改革には、どうやら大王(おおきみ/天皇)交代の背景と強い因果関係が在りそうである。
六百三十年(奈良時代)頃の白村江(はくすきのえ)の戦いの後、その大敗から僅か一年後、唐の占領軍二千人が来て一ヶ月足らずで天智帝の崩御があり、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の皇子・大友皇子が弘文大王(こうぶんおおきみ・第三十九代天皇)として即位(?・正式の即位では無い)したのだが、そのタイミングで突如大海人皇子(おおあまのみこ)が現れ、「壬申(じんしん)の乱 」が起きているのである。
この乱の符合は偶然だろうか?
そして、この唐軍の進駐期間には奇妙な欠落部分がある。
白村江(はくすきのえ)の戦いの戦勝国は、唐帝国と新羅国で、当然ある筈のもう一方の勝者、「新羅との敗戦処理」が日本史には痕跡も無い事が返って怪しいのだ。
戦勝国・新羅の進駐軍、或いは割譲地の統治者として乗り込んで来た新羅の者の存在が、記録に全く無いのである。
その戦勝国・新羅の動向が記録に全く無い事が、大海人皇子(おおあまのみこ)の疑惑が「新羅王の弟説」と言う「疑惑」の根拠である。
戦勝国・新羅王の弟が占領軍または一部国土を割譲した為の渡来であれば、天智天皇が誓約(うけい)の証として娘四人を大海人皇子(天武天皇/おおあまのみこ)に奉じて「互いの融和を図った」とするならば、大海人皇子(おおあまのみこ)が兄・天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の娘四人をたて続けに娶った疑問がスッキリ解決出来るのである。
天武天皇(てんむてんのう/第四十代・大海人皇子/おおあまのみこ)が壬申(じんしん)の乱 を経て政権を奪取したこの時機と、列島(日本)側・大和朝廷に新制度「律令制」が導入された時機が重なっている。
これは偶然だろうか?
には隠された事情があり、制度を改革して今までの統治の構図を一新させざるを得無い権力強化の必要があったのではないだろうか?
天武天皇(てんむてんのう/第四十代/大海人皇子)が政権を奪取して十三年、政権が確固たるものに安定すると、大王(おおきみ)の地位の確立を進める為、六百八拾四年(天武十三年)に八色の姓(やくさのかばね)の制度を採用して臣王(おみおう・御門・みかど)達が朝臣(あそみ・あそん)に成り、大王(おおきみ)が帝(みかど)に成った。
帝(ティ)を「みかど」と読むのは日本だけで、元は数が多かった御門(みかど)が一人の大王(おおきみ)の事に絞られてそう読まれる事になったのではないだろうか。
一番上の姓(かばね)である真人(まひと)は、主に皇族に与えられ、次に朝臣(あそみ、あそん)、臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などが、八色の姓(やくさのかばね)の身分をも表す姓(かばね)制度で、天皇家への権力掌握をはかったのである。
天武天皇の生前に律令は完成しなかったが、持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝・天智大王の娘)の時代(六百八十九年)に律令が完成・施行され、七百一年の大宝律令の制定・施行へと続いて行くのである。
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