建武の新政(親政/けんむのしんせい)と南北朝並立
後醍醐天皇は、大塔宮・護良親王(もりながしんのう)などの自軍が官軍で在る事を世間に知らしめる為に、承久の乱(じょうきゅうのらん)・後鳥羽上皇の故事に倣(なら)って錦旗(きんき)を北畠顕家や足利尊氏、新田義貞、楠木正成、赤松則村(円心)、名和長年(なわながとし)らに下賜し、その使用を許している。
余談だが、この建武の新政(けんむのしんせい)は、第二次世界大戦前は明治維新政府以後の天皇神格化政策で、「建武の中興」と表現され、天皇親政の歴史を謳っていた。
後醍醐天皇は味方を集めて鎌倉幕府を倒し、自ら天皇親政によって建武の世に朝廷の政治を復権しようとしたが護良親王に近侍していた赤松則祐(そくゆう)とその父・赤松則村(円心)が護良親王の鎌倉幽閉を切欠に後醍醐天皇と対立する。
また後醍醐天皇が周りの側近や公家達を厚く処遇して武士層を中心とする不満を招き、千三百三十六年(建武三年)に鎌倉倒幕の有力貢献者であった河内源氏の足利尊氏が離反し、赤松則村(円心)と連携した事により後醍醐天皇の「建武の親政」は足元から崩れ始めた。
足利尊氏の挙兵にあたり、後醍醐天皇方北畠顕家(きたばたけあきいえ)や新田義貞、楠木正成(くすのきまさしげ)などの奮闘もあり、一時は後醍醐天皇方が優勢となり足利尊氏を九州方面まで敗走させたが、赤松円心が「白旗城」に篭って抵抗している間に九州で建て直しに成功した足利尊氏が反転、京に攻め上って来て後醍醐天皇方が劣勢と成って京の都を追い落とされ、建武の親政・政権は崩壊した。
後醍醐天皇が吉野へ逃れて吉野朝廷(南朝)を成立させ、先に光明天皇(北朝)に渡した三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)は偽器であり「自分が正統な天皇である」と宣言するが、とりもなおさずこの事が建武の新政(けんむのしんせい)の終焉をした事を意味し、ここに、吉野朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)が対立する南北朝並立時代が到来する。
南北朝並立時代は、千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の南北朝合一まで約六十年間に渡って南北朝の抗争が続いた。
実は六十年間続いた南北朝の抗争が、千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の「南北朝合一(明徳の和談)」後も北朝方の両統迭立(りょうとうこうりつ)の約束が約束不履行から混乱は続き、南朝勢力の一部(後南朝)はまた吉野へ立て篭もって千四百三十七年頃まで約四十五年間も頑強に戦っていた。
千四百四十一年(嘉吉元年)の「嘉吉の乱(かきつのらん)」は、南朝の残党が赤松氏に攻められ、最後の抗戦をあきらめて僅か四年、応仁の乱(おうにんのらん)が始まったのが千四百六十七年(応仁元年)であるから、南北朝並立時代の武力混乱の社会風潮が「依然続いていた」と見て良いだろう。
尚、この建武の新政(親政/けんむのしんせい)と南北朝並立の間に起こったのが、の遺児・北条時行(ほうじょうときゆき)に拠る中先代の乱(なかせんだいのらん)であり、南北朝並立と同時進行した足利兄弟に拠る観応の擾乱(かんのうのじょうらん)だった。
【南北朝合一(なんぼくちょうごういつ/明徳の和約)】に続く。
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