常盤御前(ときわごぜん)
源頼朝の腹違いの弟にあたり、若い頃は「牛若丸」と言った。
兄二人と同様に、幼かったので父の敗戦にも関わらず、死罪を免れた。
鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、僧にさせられかけたのは有名な話である。
運命の子、牛若丸(源義経)が生まれて来た時は、一連の大乱、「保元の乱」の只中だった。
本来なら、九男坊の牛若は気楽な人生が待っていたのかも知れない。
しかし父・義朝は、牛若丸(義経)がまだ歩けないうちに平清盛(たいらのきよもり)に破れ、非業の最期を迎えている。
義経の母・常盤御前は出生不明の謎多き女性で、平治物語によれば、近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女(ぞうしめ)の採用にあたり、都の美女千人を集め、十名を選んだ中で一番の美女が「常盤であった」と言われて居る。
その絶世の美女が、見初められて源氏の棟梁「源義朝」の妾(側室)に上がり、二人の間に、今若丸、乙若丸、牛若丸の三男一女を成した。
所が、「平治(へいじ)の乱」でその義朝が平清盛に討たれてしまう。
この時代の武家の習いでは、一族皆殺しが普通で、特に敵の男子は子供であっても禍根を残さぬ為に命を絶つ。そうした意味で、この乱世の時、男も女も日々の覚悟がなければ生きられない。
我が子を守りたい常盤は、策に窮して敵の「平清盛」の側女(そばめ)に上がり、妾として身体を張って三人の助命に成功している。
平清盛にすれば、常盤御前は命を取り合った敵将の、愛妾だった絶世の美女で、同じ女性(おなご)を抱くにしても征服感や興奮の度合いが違うから、邪(よこしま)に楽しめる。
それで、常盤の子達(今若丸、乙若丸、牛若丸)の助命を聞き入れ常盤御前に触手を伸ばしてしまった。
その煩悩とも言える欲心が、結果的に平家滅亡の火種を作った事になる。
その後、清盛の子供を身ごもった常盤の生き方を、「壮絶」と言うか「したたか」と言うか、意見は分かれようが、牛若丸(遮那王・義経)にして見れば、父の仇(かたき)の上に戦利品として母を抱いた男が平清盛だったのである。
一般の民にとっては、「戦乱の世」と言っても氏族達の世界の出来事で、ただ迷惑な事ではあった。
その戦乱の世の武門も、絶えず戦っていた訳ではない。
領国・領地を運営し、次ぎの戦の為の武器、兵量(ひょうりょう)その他の準備をして、言わば「生活の合間に戦(いくさ)をしていた」と言うのが、歳月の割合とすれば、正確な武門に生きる者の、生活の正しい表現だった。
この有史以来に何度も数えられる戦乱の時代の、武門同士の戦は一度で決着が着くのは稀で、大概の所は何度も槍を交え何年もかかる事が多かった。
だから女性達は、その日々の暮らしの中で、愛し合い、憎み合って生きていた。
その男達の凄まじい運命の狭間で、控え目に、しかし、しぶとく力強く生きたのが、実は日本の女性達だった。
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皇統と鵺の影人
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