一向一揆(いっこういっき)・石山合戦(いしやまかっせん)と顕如(れんにょ)上人
その最大で最後の一向宗 と織田信長の全面戦争が、織田信長と雑賀孫市の仲を裂いた「石山合戦」だった。
第二章の平安時代末期から鎌倉初期の所で前述したが、政情不安定な歴史の変革期に、宗教界では新しい仏教の一派が天台宗から分かれて芽吹いていた。
後に一向宗(浄土真宗)の基となった親鸞(しんらん)の師、浄土宗の法然(ほうねん)が現れ、精力的に布教を始めている。
この教えが、権力者より民衆を救い、「拠り所」とする為の教えだったので、庶民の間で急速に広まって行った。
この法然(ほうねん)の存在は、血統を重んじた当時の氏族支配体制には恐ろしく異端であった。
しかし、次第に民衆の中に浸透して行った処を見ると、庶民はけして体制に甘んじていた者ばかりでは無かった事になる。
辻説法から始まった法然(ほうねん)の教えは、法然を師と仰ぐ親鸞(しんらん)によって民衆に支持される一向宗(浄土真宗)へと昇華して、やがて来る南北朝の混乱、戦国期の混乱を経て、正面から氏姓制に対抗する庶民の大信仰勢力に育って行く。
一向宗は、言わば庶民の宗教だったので、権力者はこれを認め難かったのだ。
すなわち、一向宗の教えが、「仏の前では皆平等」であったので、布教が広まれば「為政者の権力を否定され、政権の安定は難しい」と考えたからに違いない。
反対に、雑賀衆のような主君を持たない独立武装勢力には、支持されて当然だった。
この一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗・じょうどしんしゅう)が戦国時代には大きな信仰勢力と成り、武装僧兵を抱え、信者の土豪武士屋民衆をも味方に付けて各地で一揆を起こし、戦国大名と対峙して一定の宗教自治区を勢力下に置いていた。
中でも千四百八十八年に加賀国(現・石川県)に起こった加賀一向一揆では、加賀国の守護職・富樫政親を滅ぼして広大な宗教自治区を擁していた。
畿内及びその周辺の国々で守護大名または戦国大名と一揆を繰り返していた一向宗(浄土真宗)は、細川晴元に攻められて本拠地・山科本願寺を焼き討ちで失った為に、本願寺門跡八世の蓮如(れんにょ)がその本拠地を摂津国大坂御坊(石山御坊)と定め石山本願寺とする。
石山本願寺は現在の大阪城の位置に在り、小高い丘陵や河川に囲まれ守りに適した地形の湿地帯に築かれた寺院及び宿坊で、さながら城砦の堅固さを擁していた。
一方、天下布武を掲げる織田信長に取っては、為政者の権力を否定される一向宗(いっこうしゅう/浄土真宗・じょうどしんしゅう)信仰勢力の存在は邪魔なものでしかない。
足利義昭を擁して上洛に成功した織田信長は、次第に信長との関係が険悪になったその義昭と一向宗(浄土真宗)石山本願寺勢力が反信長で密約、阿波国をはじめ畿内一円に勢力を有する戦国大名・三好氏(信濃源氏)と結束して信長打倒の動きをはじめる。
千五百七十年(元亀元年)本願寺門跡の顕如(れんにょ)上人は「信長は本願寺を取り潰す仏敵である」として本願寺門徒に檄を飛ばし、三好氏攻略の為に摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃し、その石山挙兵とほぼ同時に伊勢国長島願証寺で一向一揆が発生(長島一向一揆)し、信長の弟信興が守る尾張の小木江城を滅ぼすなどして公然と信長に敵対するようになる。
織田信長は石山挙兵と長島一向一揆を抱え、それでも派兵して優勢に戦うが、三好、朝倉、武田、上杉などの反信長勢力の動向も抱えて攻め切れず、三年間ほどにらみ合い休戦状態が続いている。
千五百七十三年(元亀三年)、漸く織田信長は朝倉氏(朝倉義景/あさくらよしかげ)と浅井氏(浅井長政/あざいながまさ)を相次いで滅ぼし越前国と近江国浅井領を手に入れるが、越前一向一揆が起こりせっかく得た越前を一向宗に奪われてしまう。
これにより本願寺勢力は、長島・越前・石山の三ヵ所で信長に敵対していたが、信長はまず伊勢長島の一揆に大軍を動員して包囲降伏を赦さず殲滅している。
越前一向一揆に対しては、織田信長が千五百七十五年(天正三年)に武田勝頼を長篠の戦いで破り余裕が出来たところで越前に派兵を決定、織田軍は連戦連勝で瞬く間に越前一向一揆を制圧しその勢いで加賀一向一揆にまで兵を進め、加賀の南部に攻略拠点を築いている。
越前一向一揆の制圧の翌年(天正四年)、顕如(れんにょ)上人は毛利氏に庇護されていた将軍・足利義昭と与して三度目の挙兵、これに毛利氏、雑賀衆、村上水軍が与力して信長と対峙する。
越前一向一揆の制圧の翌年(天正四年)、顕如(れんにょ)上人は毛利氏に庇護されていた将軍・足利義昭と与して三度目の挙兵、これに毛利氏、雑賀衆、村上水軍が与力して信長と対峙する。
織田信長はこの石山合戦に二年ほどの歳月をかけ、時の関白・近衞前久(このえさきひさ)の調停を得て千五百七十八年(天正六年)に石山本願寺引き渡しを条件に正親町天皇(おおぎまちてんのう)の「勅命講和」という方式での講和を為し、門跡の顕如(れんにょ)上人が石山本願寺を嫡子で新門跡の教如に渡し紀伊国鷺森郷の地に退去した。
新門跡の教如も、石山本願寺を織田信長に引き渡して雑賀郷に退去し石山合戦は終結する。
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