細川晴元(ほそかわはるもと)と三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)その(一)
細川晴元は応仁の乱(おうにんのらん)終息後の下克上(げこくじょう)時代、室町幕府末期の管領職に在った人物である。
応仁の乱(おうにんのらん)の一方の旗頭・細川氏は、室町時代の守護大名、室町幕府の管領、三管領のひとつである足利氏族・細川家嫡流・京兆家の当主の家系だった。
細川氏は元は三河国・額田郡細川郷発祥の清和源氏足利氏流であり、足利将軍家の枝に当たる名門で、一族を挙げて足利尊氏に従い室町幕府の成立に貢献、歴代足利将軍家の中枢を担って管領職、右京大夫の官位を踏襲していた。
細川氏が任じていた「管領(かんれい)」職とは、室町幕府の最高の職で将軍を補佐して幕政を統轄した役職で斯波氏・畠山氏・細川氏の三家が任じ、侍所頭人の山名氏が勤めていた「侍所頭人(さむらいどころとうにん)」は軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る侍所の長官で、四職(ししき/ししょく)と呼ばれ、守護大名の赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の四家、イレギラーで美濃守護の土岐氏も任じていた。
この室町幕府(むろまちばくふ)の有力守護大名の斯波氏・畠山氏・細川氏の管領職三家と、侍所頭人に任じられた四家(赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏)は、合わせて「三管四職」と呼ばれ、各家が嫁のやり取り養子の出し入れで縁戚となり幕府内で勢力争いをして応仁の乱を引き起こしていた。
その応仁の乱が収まると、今度は細川家で跡目争いの内紛が勃発する。
細川家嫡流・京兆家は、細川政元が妻を持たず子がなかった為に、澄之・澄元・高国と三人の養子を迎えたのだが、この三人がそれぞれに足利将軍やその候補を立て味方になったり敵に廻ったりの争いを続けた。
その応仁の乱のメリハリの無い終息と細川家の内紛で混沌とした時代の千五百十四年(永正十一年)に、細川晴元は細川澄元の子として生まれる。
六年後、父・澄元が阿波で死去し、細川晴元は僅か七歳で細川家嫡流・京兆家の家督を継承した。
晴元十三歳の時、配下の三好元長(源・小笠原氏流れ)らと共に挙兵して父・澄元の義兄弟にあたる細川高国を攻め、千五百二十七年(大永七年)に細川高国が第十二代将軍・足利義晴らとともに近江へ落ち延びると、晴元は足利義維(あしかがよしつな)と共に和泉国堺を本拠とし足利義維(あしかがよしつな)を将軍(堺公方)と成した。
しかしこの将軍擁立の大仕事、いくら細川氏の若棟梁とは言え僅か十三歳の細川晴元には荷が重い為、推測するにこの頃から実質的に力を擁して大仕事を主導したのは三好元長と見て間違いは無い筈である。
三好氏(みよしうじ)は、源義光(新羅三郎義光)を祖とする清和源氏義光流で、甲斐源氏の支流にあたり鎌倉時代の阿波の守護職・小笠原氏の末裔で、阿波三好郡を本拠にした事から三好氏を称した。
室町時代の三好氏は阿波守護職・細川氏の守護代を務め、戦国時代には管領・細川氏の没落に乗じて阿波をはじめ畿内一円に大勢力を有する戦国大名となった。
三好氏は、三好之長の時代に管領・細川勝元、細川政元に仕えて勢力を拡大したのが、三好氏畿内進出の契機となる。
そして、三好元長の代に細川晴元に仕えて細川高国を討つという武功を挙げ、三好氏は細川氏を実質的に補佐する重臣にまで成長する。
千五百三十一年(享禄四年)、十七歳になっていた晴元は三好元長に命じて世に「大物崩れ」と呼ばれる事をおこし、高国を摂津の広徳寺で自害させた。
その翌年の天文元年、晴元は三好一族の三好政長の讒言を信じて三好元長と対立をはじめ、本願寺証如や木沢長政らと手を結び、一向一揆を扇動して元長を堺で殺害する。
【細川晴元(ほそかわはるもと)と三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)その(二)】へ続く
【足利流・京兆細川家・細川勝元(ほそかわかつもと)】に戻る。
【第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ】
<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)
未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2008-11-10 04:48