近衞前久(このえさきひさ)
戦国の世に在ってほぼ織田信長(おだのぶなが)と同世代に生きた公家・藤氏長者は、近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)である。
近衞家・第十六代当主が信長の二歳年下で生まれた近衞前久(このえさきひさ・藤原前久)で、細川晴元や三好長慶などが引き起こした畿内の動乱や戦国時代・安土桃山時代を帝の側近公家として従一位・関白左大臣・太政大臣を務め政治への積極参加をしたが為に、動乱期を摂津国大坂の石山本願寺、河内国若江の三好義継、丹波国黒井城の赤井直正、薩摩国鹿児島の島津義久と流浪を余儀なくされた人生を生き抜いた。
近衞前久(このえさきひさ)は、関白在任中の千五百六十六年(永禄九年)松平家康の松平の苗字を徳川に改める事と、家康に対する従五位下三河守叙任について朝廷に斡旋し成し遂げている。
織田家の朝廷工作役の平手政秀(ひらてまさひで)が切腹して三年、後任に明智光秀(あけちみつひで)にその役が廻って来た頃と近衞前久(このえさきひさ)が関白に任じられた頃が、時期的に符合している。
どうやらこの頃から近衞前久(このえさきひさ)は織田家の朝廷工作役の明智光秀とは接触があり、織田信長の意向を伝えた光秀との親交、家康の三河守叙任運動を通して徳川家康との親交も育んで居たようである。
藤原氏の嫡流の五摂家の文化人である近衞前久(このえさきひさ)は、和歌・連歌に優れた才能を発揮し青蓮院流の書をたしなみ、更に「馬術や鷹狩りなどにも抜群の力量を示していた」と伝えられている。
この前久(さきひさ)、反足利義昭、反二条晴良だった為に一時信長と敵対するが義昭が信長によって京都を追放され、一方の晴良も信長から疎んじられるようになると、前久(さきひさ)は「信長包囲網」から離脱し以後は信長との親交を深めている。
信長が攻めあぐみ中々決着が付かなかった信長と石山本願寺門跡・顕如との「石山合戦(一向一揆)」を調停し、本願寺門跡・顕如を石山本願寺から退去させる事で和議に持ち込んだのも前久(さきひさ)である。
近衞前久(このえさきひさ)は流浪の関白だったが、この国は官位の任命権を朝廷が握っていてそれが武将達の権威を裏付けるものだったから、織田信長の要請を受け九州に下向、薩摩国守護の島津義久の下に逗留して九州安定の為に豊後国・大友氏、日向国・伊東氏、肥後国・相良氏、薩摩国・島津氏の和議調停を図っている。
前久(さきひさ)と信長との関係は良好で、三官推任問題で難しい問題も在ったが密約説も在り「本能寺の変」がなければ前久(さきひさ)の命運は変わっていたかも知れない。
一時は織田信孝や羽柴秀吉から明智光秀謀反の共犯を疑われ、徳川家康を頼って遠江浜松に下向している。
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