比叡山焼き討ち
本能寺の変から遡る事十年、元亀二(千五百七十二)年九月十二日信長は南近江の守山・金ヶ森を攻めた信長軍は突如湖水を渡り、対岸の坂本にある天台宗の総本山、比叡山延暦寺を攻撃した。
延暦寺の不意をついた信長軍は山上山下に次々に火を放ち日吉社の山王二十一社や延暦寺の根本中堂など一宇残さず焼き払う。
世に言う、比叡山焼き討ちである。
この攻撃に、佐久間信盛と明智光秀の指揮下で甲賀出身の山岡氏の配下にいた「伊賀・甲賀衆が参加した」と言われ、光秀の伊賀・甲賀衆との結び付きが伺える。
この攻撃の最中、光秀は経典や高僧を「独断で助けた」と伝えられている。
やがて明智光秀が坂本城主に成ると、領内となった比叡山延暦寺を手厚く保護している。
信長の「叡山焼き討ち」を解説するに、多くの作家が書き著している表現が、「僧侶の腐敗」に対する怒りである。
しかしこの解説、我輩には異論がある。
「僧侶の腐敗」に対する怒りは、「坊主性善説」に乗っ取った今時の先入観から生み出された安易な発想で、時代考証を全くしていない事になる。
時代背景的に見て、当時の信長が坊主に品行方正など求める訳がない。
元々神と仏の「現世利益」のせめぎ合いが信長と叡山の争いで、双方どっちもどっちのなのだから信長の焼き討ち行為を狂気とするのもおかしな話である。
間違えてもらっては困るが、「現世利益」にしても「来世利益」にしても、詰まる所は「自らの利」である。
つまり、信心深い人間は「欲が深い」のである。
信仰にしても占いにしても、夢中になる事は最も人間らしい行為であるが、それは「煩悩(欲が深い)が深い」と言う事である。
つまり、当時の僧侶と戦国武将の抱く「現世利益」に、さしたる違いはなかった。
それで無くとも神官の家系から続く織田家の棟梁で、けして信仰が奇麗事では無い事を天才信長は知っていたからこそ仏罰を恐れなかったのである。
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皇統と鵺の影人
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