浅井長政・朝倉に与力す
濃尾平野の西方向にそびえる伊吹山の頂上空から、伊勢湾に向かって吹き抜ける寒気を伴った強風は濃尾平野を厳しく舐めて行く。
若狭湾から琵琶湖を経て伊吹山の麓の関ヶ原に至る回廊状の地形が存在し、日本海側の冬の季節風がこの回廊を通って吹き込んで来るのである。
正にこの回廊状の季節風の通り道が、尾張から越前への朝倉攻めの道筋である。
織田信長は兵を起こし、越前・朝倉攻めに向かった。
この知らせを聞いて、浅井家中や浅井長政は苦悩する。
浅井家にとっては同盟国同士が戦をするのであり、事が起こった以上戦国大名が傍観者ではいられない。
ましてや、浅井家にとって両者伴に同盟相手同士の争いである。
旗色を鮮明にしないと、武門の名折れになる時代だった。
浅井家中の意見も、揺れ動いた。
隠居の父・久政は、永年の朝倉家との同盟の恩義を主張した。
朝倉家の永年の御を忘れては、浅井家の武門の義は立たぬ。
父・久政は、強行に「朝倉方にお味方せよ。」と迫った。
長政も最後は「義」をとって、朝倉方の加勢を決断する。
「父上のおっしゃる事、御もっともである。各なる上は、朝倉殿にお味方仕りましょうぞ。」
せめて、「傍観者でいてくれ。」の信長のメッセージは、浅井長政には遂に届かなかった。
姉川の合戦当時、織田信長は三十七歳、徳川家康二十九歳、浅井長政二十六歳と言う。
若い長政は、情勢判断より人情を優先した父の意向に逆らえずに、みすみす落城の憂き目に会う事になる。
長政もまた、古い常識的発想に囚われていたのだ。
この長政の決断は、朝倉攻めをしていた信長を窮地に立たせる。
前後を敵に囲まれる最悪の事態で、退路もなくなる。
この、浅井家の動きを信長が察知したのは、「お市方から贈られた小豆(あずき)袋の、両端を縛った袋のとじ方」と言われているが、これは出来過ぎた話だ。
両結びの小豆(あずき)の袋の逸話は、お市の方が織田家に出戻り易くする為の「創作」と考える方が自然である。
当然万一に備えた「物見の報告」と思う方が、自然なのだ。
この頃信長は、光秀を通して伊賀・甲賀などの傭兵を活用していたから、情報も迅速だったので有る。
形勢不利と判断した信長は、軍勢に大きな犠牲を払いながら、美濃の本拠地岐阜城に逃げ帰る事になる。
この時、しんがり(見方を逃す為の捨て駒)を買って出て、成功したのが「羽柴(豊臣)秀吉」と言われている。
【姉川の合戦】へ続く。
【第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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