松下村塾(しょうかそんじゅく)
そして幸運と言うべきか歴史の必然だったのか、長州藩内に在って倒幕運動の指導的役割を果たした松下村塾出身者は、先進感覚に優れた政務役筆頭の周布政之助(すふまさのすけ)に登用されて藩政に参画している。
後半こそ薩摩藩士から西郷隆盛や大久保利通などが多数が加わったが、最初は長州藩士達の働きに負う所が大きかった。
その松下村塾(しょうかそんじゅく)は、元々は松陰の叔父である玉木文之進が長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に設立したもので、若き吉田虎之助(松陰)もそこで学んだ。
頭脳明せきだった吉田虎之助(松陰)は直ぐに頭角を現し、十歳の時には既に藩主・毛利敬親の御前で「武教全書」戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
しかし吉田松蔭は、折から西欧植民地主義が直ぐ近くまでヒタヒタと迫っていて、松陰は隣国の大国・清がアヘン戦争で大敗した事を伝え知って、己が学んだ山鹿流兵学が世界列強相手に通用しない事を知った。
松陰は西洋兵学を学ぶ志を立て、千八百五十年(嘉永三年)に当時唯一窓口(長崎出島)の在る九州に遊学、その後江戸に出て佐久間象山の師事をして蘭学を学んだ。
吉田松蔭は、米国のマシュー・ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航すると、師の佐久間象山と浦賀に同行して黒船を視察し、その西洋の先進文明に心を打たれ、翌千八百五十四年、再来日したペリーの艦隊に対して米国密航を望んで、直接交渉すべく小船で近寄りその密航を拒絶されて送還された。
松蔭は米国蜜航の夢破れると奉行所に自首して伝馬町の牢屋敷に送られ、師匠の佐久間象山もこの密航事件に連座して入牢されている。
この密航事件の仕置き、幕府の一部には死罪の意見もあったが、時の老中首座の阿部正弘が反対して助命され、松蔭は藩(長州藩)に送られ長州の野山獄に繋がれる。
翌千八百五十五年(安政二年)、吉田松蔭は杉家に幽閉の身分に処され蟄居する事で出獄を許された。
その二年後の千八百五十七年(安政四年)叔父・玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾する。
つまり吉田松陰 (よしだしょういん)が、叔父・玉木文之進の松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾したのは千八百五十七年(安政四年)である。
松陰 (しょういん)が「安政の大獄」に連座して斬刑に処されのは、千九百五十九年(安政六年)の十月だから、実は多くの有意の門弟を教えたのは僅か三年の間だけである。
だが、松陰 (しょういん)の講義は一方的に弟子に事を教えるのではなく、師弟の間でも論議を交わす有意義なもので、「門弟同士も互いに議論を交わしながら育った」と言える。
吉田松陰は、松下村塾を叔父である玉木文之進から引継ぎ、僅か三年の間に桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一(いりえくいち)、伊藤俊輔(博文)、井上馨(いのうえかおる/井上聞多)、品川弥二郎(しながわやじろう))、山縣有朋(やまがたありとも)、乃木希典(のぎまれすけ)前原一誠など維新の指導者となる人材を教え、桂太郎(かつらたろう)にも影響を与えている。
詳しくは【吉田松陰(よしだしょういん)】へ飛ぶ。
詳しくは、小説【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。
幕末の長州(毛利)藩主【そうせい侯・毛利敬親/慶親(もうりたかちか/よしちか)】に飛ぶ。
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皇統と鵺の影人
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