井上馨(いのうえかおる/井上聞多)
生家の井上家は清和源氏系の河内源氏の流れを汲む土着の安芸国人として毛利氏家臣であった。
勿論この井上家も、清和源氏系の河内源氏流となれば立派な影人の家系である。
井上聞多(馨)は、毛利長州藩士・井上五郎三郎光享(大組・百石)の次男、幼名・勇吉として、周防国湯田村に生まれる。
聞多は長州藩主毛利敬親から拝受した通称で、一旦は同じ長州藩士・志道家(大組・二百五十石)の養嗣子となり志道姓を名乗るも、後に井上家に復籍して小姓役などを勤めた。
藩校明倫館に入学した後、江戸で岩屋玄蔵や江川太郎左衛門に師事して蘭学を学び、当時蘭学を学ぶ者たちの間で次第に勃興した尊皇攘夷運動に共鳴、江戸遊学中の千八百六十二年(文久二年)には高杉晋作や久坂玄瑞らとともにイギリス公使館の焼討ちに参加するなどの過激な行動を実践する。
井上馨(いのうえかおる)は伊藤博文(いとうひろぶみ)の友人で、松下村塾(しょうかそんじゅく)の塾生と良く行動を伴にするも、松下村塾には入門していない。
只、正式に入門しては居ないが、吉田松陰にも師事して助言も受けている。
翌文久三年には、井上聞多(馨)は長州藩執政・周布政之助を通じて洋行を藩に嘆願、受け入れられて伊藤俊輔(博文)・山尾庸三・井上勝らとともに長州五傑の一人としてイギリスへ密航する。
井上聞多(馨)は、そのイギリス留学中に国力の違いを目の当たりにして開国論に転じていたが、その最中に長州藩の下関に於ける外国船砲撃事件を聞き伊藤博文とともに急遽帰国して事態収拾の和平交渉に尽力した。
第一次長州征討では武備恭順を主張した為に、井上聞多(馨)は「袖解橋の変」と呼ばれる襲撃事件で俗論党に襲われ瀕死の重傷を負うが、美濃の浪人で医師の所郁太郎の手術を受け一命を取り留めている。
その後井上聞多(馨)は、藩論を開国攘夷に統一する為に高杉晋作らと協調して長府功山寺で決起、藩論統一に成功する。
千八百六十五年(慶応元年)、幕府の第二次長州征討機運が高まる中、坂本龍馬の仲介で西郷隆盛らと会談、薩摩藩との同盟(薩長同盟)にこぎつけ、幕府軍に勝利する。
この「薩長同盟」が倒幕の引き金となり、徳川慶喜の大政奉還へと到るのである。
伊藤博文とは盟友で、維新後の太政官制時代に外務卿、参議、黒田内閣で農商務大臣、第二次伊藤内閣では内務大臣など数々の要職を歴任した元老だが、現実主義者であった為に事業欲もおおせいで、財閥との癒着や汚職の醜聞も多く聞かれた人物だった。
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