桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)
特に藩主の父・徳川斉昭への謹慎処分などで特に反発の多かった水戸藩では、高橋多一郎や金子孫二郎などの過激浪士が脱藩して薩摩藩の有村次左衛門などと連絡し、薩摩の率兵上京による義軍及び孝明天皇の勅書をもってのクーデター計画を企てていた。
しかし薩摩藩内の情勢が変わり、止む無く薩摩から有村次左衛門のみが加わって水戸の激派が独自に大老襲撃を断行する。
この大老襲撃計画の警告は井伊家に届いていたが、直弼(なおすけ)は大老職に在る者として臆病のそしり(批判)を恐れ、あえて護衛を強化しなかった。
千八百六十年(安政七年)、直弼(なおすけ)が幕府大老に就任して二年が経っていた。
そこで世に言う「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」が起こる。
「桜田門外の変」は、江戸城桜田門外(東京都千代田区)にて尊攘派の水戸藩の浪士らが大老・井伊直弼の行列を襲撃し暗殺した事件である。
大老襲撃隊は東海道品川宿(東京都品川区)の旅籠で決行前の宴を催し一晩過ごし、当日朝品川宿を出発して東海道を進み、大木戸を経て札ノ辻を曲がり、網坂、神明坂、中之橋を過ぎて桜田通りへ抜け、愛宕神社(港区)で待ち合わせたうえで外桜田門へ向かい、大名駕籠見物を装って登城する直弼(なおすけ)の行列を待つ。
三月三日の当日朝は生憎の気象で江戸市中は季節外れの雪で視界は悪く、井伊藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から登城する直弼(なおすけ)の護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていた。
その登城途中の直弼(なおすけ)を、大老襲撃隊の水戸藩過激派浪士は江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃する。
その襲撃の端緒から直弼(なおすけ)は不運だった。
駕籠にめがけて発射した襲撃隊の合図のピストルの弾丸によって直弼(なおすけ)は腰部から太腿にかけて銃創を負い、雪の上に放置された駕籠の中で動けなくな成っていた。
供周りも不運である。
大老の体裁を整えた雪中の行列の為、襲撃を受けた彦根藩士は柄袋が邪魔して咄嗟に抜刀できなかった為、鞘で抵抗したり素手で刀を掴んで指を切り落とされるなど不利な形勢で、抗しきれず斬り伏せられ、護る者のいなくなった直弼(なおすけ)の駕籠に次々に刀が突き立てられ、有村次左衛門に駕籠から引きずり出されて首を撥ねられて止めを刺され、直弼(なおすけ)は絶命した。
この独裁者として評判が悪かった井伊直弼(いいなおすけ)であるが、米国のペリーが来航して「開国・通商を迫る」と言う予想外の事態(特殊な事情)がきっかけで台頭しなければチャンスが無かった。
そして周囲の実力者に担ぎ上げられて権力を掌握すると独裁者に変身し、自分を推し大老就任に味方した者まで切って棄てる冷酷な所は、誰とは言わないが、たまたま派閥の番頭で金集めは派閥の領袖がしていた為に、金銭的に身綺麗だっただけで、派閥の部屋住みの身から総理の座を手に入れて独裁者に変身した近頃の総理大臣に酷似している。
但し井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺の頃から尊攘派の知識人が外国の圧倒的な先進国力を学んで攘夷を棄て、尊王開国派に転進して倒幕に向かったのは実に皮肉な結果で、直弼(なおすけ)の開国の決断は結果的に歴史が肯定する結果と成っている。
ただ井伊直弼(いいなおすけ)は、既に命運尽きる落日の江戸幕府に在って、強引な政策をして最後の炎を一瞬たぎらせた事は確かである。
勝海舟と西郷隆盛の会談に拠り江戸城が開城され、征討大将軍・仁和寺宮彰仁親王(にんなじのみやあきひとしんのう)、東征大都督・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が率いる官軍が入城したのは、桜田門外の変から僅か八年後の事で在った。
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未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2008-11-26 13:38