井伊直弼(いいなおすけ)と安政の大獄
マシュー・ペリーの来航に伴い幕府が孝明天皇の勅許無しで米国と日米修好通商条約を調印、安政の開国に踏み切る前後の江戸幕府は、幕府の内部でも開国派と攘夷派の間で暗闘が始まっていた。
嘉永から安政年間に渡る幕政は、老中首座の阿部正弘(あべまさひろ)によってリードされていて、マシュー・ペリーの来航時の阿部は幕政を従来の譜代大名中心から雄藩(徳川斉昭、松平慶永/春嶽ら)との連携方式に移行させ、徳川斉昭(なりあき/水戸藩・第九代藩主)を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。
所がこの徳川斉昭(とくがわなりあき)は度々攘夷を強く唱え、開国派の井伊直弼(いいなおすけ)と対立している。
井伊直弼(いいなおすけ)は、第十一代藩主・井伊直中の十四男として近江国犬上郡の彦根城(現在の滋賀県彦根市)で生まれ、幼名は鉄之介と名付けられたが、子沢山の藩主の庶子で養子の口も無く元服成人後も三百俵の捨扶持の部屋住みとして三十二歳まで過ごした。
所が、第十二代藩主・直亮(なおあき/直中三男)に実子が無かった為に世継ぎと決められていた直元(直中十一男)が死去した事により藩主・直亮(なおあき)より彦根藩の後継者に指名されて運命が変わった。
井伊家は、あの徳川家康が寵愛して大名にまで取り立てられた衆道稚児上がりの武将・井伊直政(いいなおまさ)を祖に持つ近江国・彦根藩三十五万石の大藩である。
兄・直亮(なおあき)の養子という形で従四位下侍従兼玄蕃頭に叙位・任官し、その後左近衛権少将に遷任され玄蕃頭を兼任している。
千八百五十年(嘉永三年)、兄で養父の第十二代藩主・井伊直亮(いいなおあき)の死去に伴い家督を継いで掃部頭(かもんのかみ)に遷任、第十三代藩主・井伊掃部頭直弼(かもんのかみなおすけ)となる。
井伊直弼(いいなおすけ)が第十三代の井伊藩主として幕府に出仕して三年、千八百五十三年(嘉永六年)に米国ペリー艦隊が来航、直弼(なおすけ)は江戸湾防備にあたったが、老中首座の阿部正弘の諮問には「政治的方便で臨機応変に対応すべきで、この際開国して交易すべし」と開国論を主張したとされている。
千八百五十五年(安政二年)になると、攘夷を強く唱える徳川斉昭(とくがわなりあき)と井伊直弼(いいなおすけ)ら溜間詰(たまりのまづめ/江戸城で名門譜代大名が詰める席)諸侯の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。
同年、斉昭(なりあき)は開国・通商派の老中・松平乗全と老中・松平忠固の更迭を要求、老中首座の阿部正弘は止む無く両名を老中から退けたのだが、掃部頭(かもんのかみ)兼任のまま左近衛権中将に遷任して溜間筆頭(江戸城で名門譜代大名が詰める席の最上位)に居た直弼(なおすけ)は猛烈に抗議し、溜間の意向を酌(く)んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫る。
井伊直弼(いいなおすけ)と溜間詰(たまりのまづめ)諸侯の猛抗議に、阿部は止む無く溜間(たまりのま)の堀田正睦(開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立の収束を図る。
千八百五十七年(安政四年)、直弼(なおすけ)が従四位上に昇叙される頃阿部正弘が死去すると堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、幕政は溜間(たまりのま)の意向を反映した堀田・松平の連立幕閣を形成した。
所が、徳川家定(第十三代将軍)の継嗣問題が起こり、堀田・松平の連立幕閣が紀伊藩主の徳川慶福を推挙すると一橋慶喜(十五代将軍徳川慶喜)を推す一橋派の徳川斉昭との対立を深めて行く。
国論が開国派と攘夷派に、幕府が将軍継嗣問題で徳川慶福(後の家茂)派と一橋慶喜派に割れる千八百五十八年(安政五年)、老中・松平忠固や紀州藩付家老職・水野忠央ら南紀派の政治工作により、井伊直弼(いいなおすけ)は江戸幕府の大老に就任した。
この直弼(なおすけ)の大老就任は、異常事態に人選に困った幕閣が、本来なら現在で言う派閥の領袖(りょうしゅう)クラスの老中ではなく、溜間詰(たまりのまづめ)と言う現在で言う派閥の番頭クラスからいきなり総理大臣になった様なもので、この事が既に江戸幕府の弱体を曝け出した結果である。
この大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)、権力を握ると独裁者に変身する。
井伊直弼(いいなおすけ)は、就任直後に米国総領事タウンゼント・ハリスとの間で米国との日米修好通商条約を孝明天皇の勅許を受ける事無く調印し、その無断調印の責任を自派の堀田正睦、松平忠固に着せて閣外に逐い、かわりに太田資始、間部詮勝、松平乗全を老中に起用し、尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようと独裁体制を築きあげる。
独裁体制を築いた井伊直弼(いいなおすけ)は将軍後継問題に着手、強引に徳川慶福を第十四代将軍・徳川家茂(いえもち)とする。
そして、一橋慶喜を推薦していた水戸徳川家の徳川斉昭(一橋慶喜実父)や四賢候と称された宇和島藩第八代藩主・伊達宗城(だてむねなり)、福井藩第十四藩主・松平慶永(よしなが/春嶽)、土佐藩第十四代藩主・山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)、薩摩藩第十一代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)らを蟄居させる。
さらに川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷し、その後も直弼(なおすけ)の方針に反目する老中・久世広周、寺社奉行・板倉勝静らを免職にし、その独裁振りに内外の批判の矢面に立つ。
孝明天皇は、こうした井伊直弼(いいなおすけ)の独裁強権に憤って井伊の排斥を呼びかける「戊午の密勅」を水戸藩に発している。
武家の秩序を無視して大名に井伊の排斥を呼びかける前代未聞の朝廷の政治関与に対して直弼(なおすけ)は態度を硬化させ、直弼は水戸藩に密勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じ、後に「安政の大獄」と呼ばれる多数の志士(吉田松陰などの活動家)や公卿(中川宮朝彦親王)らの粛清が開始される。
歴史的に観ると、安政の大獄で名を馳せた井伊直弼(いいなおすけ)にした所で、一言で悪人とは言い切れない。
勝てば官軍で倒幕運動は正義の戦いに評価が変わったが、その前段階に於いての常識では政権の転覆を図るのは大罪である。
つまり直弼(なおすけ)成りに、必死で滅び行く幕府を守ろうとしたのではないだろうか?
その評価で考えれば、歴史上では善悪は余り関係はなく、その時点で企てが成功したか敗れたかが問題かも知れない。
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