豊臣秀次(とよとみのひでつぐ)
戦国大名・三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉(みよしのぶよし)と名乗っていたが、後に羽柴秀次(はしばひでつぐ)と改名する。
豊臣秀次が、最初、三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉(みよしのぶよし)と名乗っていたのは、織田信長が開始した四国征伐において羽柴秀吉が四国に対する影響力を強める為に甥で養子の信吉(のぶよし/秀次)が送り込まれた事に拠るものである。
その秀次が養子入りした名門・三好氏(みよしし)は信濃源氏流れの氏族である。
鎌倉時代の阿波の守護職・小笠原氏の末裔で、室町時代は管領・細川氏に臣従しての阿波の守護代と成っていたが、管領・細川晴元の代に三好長慶(みよしながよし)が臣従したまま勢力を拡大、恐れを為した細川晴元を逃亡させてる下克上で畿内随一の勢力となり、さらに長慶は第十三代室町将軍・足利義輝と戦ってこれを近江に追い、戦国時代には阿波国をはじめ四国の一部と畿内一円に勢力を有する有力な戦国大名となった。
戦国時代初期の一時は、三好長慶(みよしながよし)が都にあって天下に号令した為、実質天下人の役割を担ったが、抵抗勢力が強くて政権の体を確立し得ない内に三好長慶(みよしながよし)が死去、長慶が勢力拡大に力として来た弟達や嫡男・義興を失っていた為に家老であった松永久秀や三好三人衆が三好家内で内乱の勢力争いとなって三好宗家は衰退する。
三好一族は、織田信長が足利義昭を奉じて入京して来た時に抵抗を試みるが敗れて四散し、足利義昭の十五代将軍宣下を許して畿内の勢力を失い、将軍・義昭と信長が対立し、将軍・義昭によって信長包囲網が敷かれると、三好宗家の義継や三好三人衆は義昭方について信長と対立するも呆気無く破れて以後は織田信長に臣従して家名を永らえる者が多かった。
そうした経緯の中、三好一族の三好康長だけがまだ四国・阿波の国で勢力を保っていた為の秀吉の政略だった。
三好秀次は三好氏家督のまま羽柴姓を賜り名として羽柴秀次と改名し、秀吉の武将として賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いに参戦、武功を挙げたり失態もあったが、紀伊・雑賀攻めと四国征伐で軍功を挙げ近江八幡に四十三万石を与えられ、小田原征伐にも参加してその戦後処理で尾張国と伊勢北部五郡など都合百万石の大領を与えられている。
明智光秀、柴田勝家を立て続けに破った羽柴秀吉が、千五百九十年(天正十八年)に天下統一を果たした翌年から四年の間に、一連の「秀吉の身内」の相次ぐ死が始まる。
頼りになる弟の大納言・羽柴秀長を始め、長子の鶴松、丹波国亀山城主の秀勝そして秀長を継いだ秀保が相次いで死んでしまった。
相次ぐ身内の死で残ったのは、小早川に養子に出した秀秋(妻方)と秀吉方甥の秀次だけだったので、関白・秀吉は千五百九十一年(天正十九年)に秀次を後継者と定め関白職を譲るが、全権を譲らず太閤と呼ばれて実質天下人の地位にあった為、二重権力化しかけた所に、千五百九十三年(文禄二年)、淀の方(茶々)との間に再び実子拾丸(ひろいまる/秀頼・秀吉次男)が生まれ、秀吉と秀次の対立は決定的に悪化してしまった。
千五百九十五年(文禄四年)、ついに秀吉は秀次を高野山に追放し切腹させ、妻子もことごとく処刑する事になる。
この秀次の死で、豊臣本家(秀頼)を補佐する秀吉の肉親は全滅したに等しかったのである。
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