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阿波局(あわのつぼね)(保子)


阿波局(あわのつぼね/北条保子)は、北条氏の女性で鎌倉時代初期の京都御所に仕える女性。

鎌倉幕府二代執権・北条義時(ほうじょう よしとき)の長男・鎌倉幕府第三代執権・北条泰時(ほうじょう やすとき)の実母とされる。

初代執権・北条時政(ほうじょう ときまさ)の娘で異母姉妹に源頼朝(みなもとのよりとも)継室・北条政子(ほうじょうまさこ )が居る。

兄弟に鎌倉幕府二代執権・北条義時(ほうじょう よしとき)らがいる。

土豪の娘に生まれた北条保子(阿波局/あわのつぼね)は、異母姉・政子(まさこ)が源氏の頭領源頼朝(みなもとのよりとも)と恋仲になり親の意思には逆らって一緒に成った事で北条保子(阿波局/あわのつぼね)の運命も変わった。

異母姉・政子と結婚した義兄・源頼朝(みなもとのよりとも)の異母弟である頼朝の父・義朝(よしとも)の七男・阿野全成(あの ぜんじょう)に嫁ぎ、四男・時元(ときもと)を儲ける。

その後、阿波局(あわのつぼね/北条保子)は甥である頼朝(よりとも)の次男・源実朝の乳母となる。

阿野全成(あの ぜんじょう)の妻とされるが、『吾妻鏡』には全成(ぜんじょう)の「妾」と記されている。



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# by mmcjiyodan | 2020-11-18 18:21  

二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)


二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。行政( ゆきまさ)は、代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。

苗字二階堂(にかいどう)は、建久三年(1192年)11月25日に建立された永福寺(二階建ての仏堂があった)の周辺に、行政(ゆきまさ)が邸宅を構えたことに由来する。

家系は藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れで父は工藤行遠(くどうゆきとう)、母は源頼朝の外祖父で代熱田大宮司・尾張目代(律令制の官職)・藤原季範(ふじわら の すえのり)の妹である。

父・行遠(ゆきとう)は工藤氏の流れ代々従五位下の下級貴族。

「工藤二階堂系図」では維遠、維行、維頼、行遠の四代が遠江(とうとうみ)守に任官したことになっている。

父・行遠(ゆきとう)は『尊卑分脈』傍注によると、遠江国司を殺害して尾張国に配流されたとあり、おそらくそのときに熱田大宮司・藤原季範の妹との間に行政( ゆきまさ)が生まれている。

行政(ゆきまさ)は母方が熱田大宮司家であった縁により源頼朝に仕えたものと思われる。


治承四年(1180年)6月29日に公家・桓武平氏高棟流・平時忠(たいら の ときただ)が伊豆の知行国主に任官する。

知行国主・平時忠(たいら の ときただ)が兼隆(かねたか)の目代任命(律令制下の地方官の代官)するを機に北条時政(ほうじょうときまさ/平時政)は娘・北条政子(ほうじょうまさこ)を兼隆に嫁がせようと画策する。

帰国の道中に兼隆との縁談を進めていた時政は平家の怒りを恐れ、娘・政子を兼隆のもとへ送ろうとするが、勝気な政子は逃げ出して頼朝のもとへ行ってしまう。

同治承四年(1180年)8月、源頼朝に従う行政(ゆきまさ)は以仁王(もちひとおう)の令旨を受け挙兵、伊豆目代(律令制下の地方官の代官)・山木兼隆(やまきかねたか)の館を急襲する。


三島大社の祭礼のために郎党の多くが留守だったため山木兼隆(やまきかねたか)は満足に戦うことができず、頼朝配下・加藤景廉(かとうかげかど) によって討たれた。

二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)は鎌倉幕府成立に貢献して頼朝(よりとも)に重用される。

文治五年(1189年)7月、奥州藤原氏頭領・藤原秀衛(ふじわらひでひら) との奥州合戦では、合戦の次第を報告するにあたってそれを行政(ゆきまさ)が書いた。

建久四年(1193年)、行政( ゆきまさ)は五位に叙され民部大夫(律令制の官職)と呼ばれるようになり、同年に鎌倉幕府政所別当が複数制になった時に別当に昇格した。政所においては別当頭大江広元 (おおえのひろもと) を補佐し、広元(ひろもと) が在京して不在の折には代わって政所の業務を統括した。



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# by mmcjiyodan | 2020-11-16 13:23  

三善 康信(みよし の やすのぶ)


三善 康信(みよし の やすのぶ)は、鎌倉幕府の初代問注所執事や鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

元々三善家は算道の家柄で太政官の書記官役を世襲する下級貴族の出身で、父は三善康光(みよし の やすみつ)、または康久(やすひさ)とされる。

康信 (やすのぶ)は母が源頼朝(みなもと の よりとも)の乳母・(特定は定かでないが、比企尼又は寒河尼又は山内尼)の妹であり、その縁で流人として伊豆国にあった頼朝に、月に三度京都の情勢を知らせていた。

治承四年(1180年)5月の以仁王(もちひとおう)の挙兵の二ヶ月後、康信( やすのぶ)は頼朝に使者を送り、諸国に源氏追討の計画が出されているので早く奥州へ逃げるように伝えるなど、頼朝(よりとも)の挙兵に大きな役割を果たした。

元暦元年(1184年)4月、康信は頼朝(よりとも)から鎌倉に呼ばれ、鶴岡八幡宮の廻廊で対面し、鎌倉に住んで武家の政務の補佐をするよう依頼されこれを承諾した。

頼朝(よりとも)の落馬死後、二代将軍・源頼家(みなもと の よりいえ)の独裁ぶりに不安を抱いた御家人の代表による十三人の合議制にも参加する。

承久三年(1221年)の承久の乱に際しては病身の身で会議に参加、大江広元((おおえのひろもと) )の即時出兵論を支持した。

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# by mmcjiyodan | 2020-11-16 12:10  

中原親能 (なかはら の ちかよし)


宿老・政所公事奉行・中原親能 (なかはら の ちかよし)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

中原親能 (なかはら の ちかよし)は、鎌倉幕府の草創期に源頼朝に招かれて下向した公家出身の御家人

宿老・政所別当を務めた大江広元の兄に当たる。

中原親能(なかはらのちかよし)は挙兵以前の源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。

一説には、頼朝が伊豆国の流人の身の頃から親交があって、源頼朝が挙兵すると関東に走り頼朝の側近となったともいわれるが定かではない。

宿老・中原親能(なかはらのちかよし)は三浦大介義明の嫡男で頼朝の源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いに敗れ、安房国に渡った将軍・源頼朝を助けた武将で頼朝の征夷大将軍の辞令を朝廷から受け取った。

中原親能(なかはらのちかよし)は、千百八十三年(寿永二年)に頼朝弟・源義経の軍勢と共に上洛し、翌年の正月にも再度入京して頼朝代官として万事を取り仕切り、貴族との交渉で活躍していた。中原親能(なかはらのちかよし)は、鎌倉幕府では軍事・行政を補佐し、京都守護・政所公事奉行など重職を歴任する。

1185年(元暦2年)の平家追討では、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けている。

1186年(文治二年)、頼朝に次女の三幡(さんまん)が誕生すると、親能の妻が乳母に就任する。

1199(建久十年)1月13日に主君・源頼朝が落馬事故で死去し、同年六月三十日、頼朝に次女・三幡(さんまん)が死去したことに伴い親能は出家する。

1189年(文治五年)の奥州征討にも中原親能(なかはらのちかよし)は従軍している。


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# by mmcjiyodan | 2020-11-14 22:43  

鎌倉幕府十三人の合議制


1199年(建久十年)一月十三日、将軍・源頼朝が死去すると、頼朝・嫡男頼家が源家の家督を相続し第二代鎌倉将軍を就任する。

北条政子(ほうじょうまさこ)北条時政(ほうじょうときまさ)北条義時(ほうじょうよしとき)など北条家の一族は、二代将軍・源頼家の権力を北条家が剥奪する体制鎌倉幕府十三人の合議制・・・を画策、成立に成功する。



同年4月12日、北条時政北条政子は頼家の訴訟親裁権を停止し、宿老十三人による合議制によることを決定した。

理由は頼朝・嫡男頼家が若年であるとのから執られた非常時措置のようでもあるが、頼家の乳母夫比企氏と北条氏の対立など、幕府の実権争いが根底にあったものと考えられる。

この決定に反発した頼家は、対抗手段として小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成らの近習衆五人を指名して、この五人に手向かってはならず、この五人でなければ目通りを許さないという決定を下している。

この為。頼家の母・北条政子と政子の父親・頼家の外祖父・宿老・北条時政がはからい初代鎌倉将軍の源頼朝の有力武将鎌倉御家人(かまくらごけにん)十三人よる宿老合議制を初代執権・北条時政を中心に発足させる。

宿老・北条義時、1205年(元久二年)の畠山重忠の乱・牧の方の陰謀を機に北条時政の嫡男・北条義時が二代執権となる。

宿老・政所別当・大江広元は鎌倉幕府の基礎を築き上げた公家で、将軍・源頼朝の死後も幕府の中で中心的な役割を担う。

宿老・問注所執事・三善康信は宿敵・平家により伊豆の蛭ヶ小島に流されていた将軍・源頼朝に、定期的に京都の情報を伝えていた公家で母が頼朝の乳母の妹だった。

宿老・政所公事奉行・ 中原親能 (なかはら の ちかよし)は宿老・大江広元の兄で公家出身の御家人で将軍・源頼朝の次女三幡の乳母夫。

宿老・中原親能は三浦大介義明の嫡男で源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いに敗れ、安房国に渡った将軍・源頼朝を助けた武将で頼朝の征夷大将軍の辞令を朝廷から受け取った。

宿老・三浦義澄は源義朝の落胤ともいわれ、将軍・源頼朝の挙兵に参陣重陽され後に頼朝の異母弟宿老・阿野全成を討った(阿野全成の誅殺)

宿老・和田義盛・侍所別当で三浦大介義明の孫。和田合戦で滅亡。宿老・比企能員(ひきよしかず)は源頼朝の乳母比企尼の養子、源頼家の乳母夫。比企の乱で滅亡。

宿老・安達盛長は源頼朝の乳母・比企尼の娘婿で伊豆の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝を援助した武将。

宿老・足立遠元は宿老・安達盛長の甥にあたるも足立氏の祖。

宿老・梶原景時は石橋山の戦いで平家方にありながら源頼朝を助けた。源頼家の乳母夫で失脚後に梶原景時の変を起こし討死する。

宿老・政所執事・二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)は宿老・大江広元、宿老・三善康信と並んで源頼朝を支えた実務官僚で政所執事を務めた公家。

以上十三人の合議制は、1199年(建久10年)の年末には宿老・梶原景時が失脚、翌年には宿老・三浦義澄と宿老・安達盛長が死去したことで解体され、いよいよ北条執権家が得宗家として実権を握った。

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# by mmcjiyodan | 2020-11-14 13:15