和邇氏(わにうじ)

古代日本に名が残る和邇氏(わにうじ)は、「和邇(わに)」を氏の名とし「和珥(わに)」とも表記し、一説には渡来農耕山岳族、一説には渡来海人族であったという伝えが残っている。

和邇氏(わにうじ)は、初期の加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系大部族とされる説と初期の海人族説があり、海人族説が正しければ海人族=海洋民族(隼人族・呉族系)と特定される。

ただしこの和邇氏(わにうじ)、謎ばかり多くて確信を持てる素性表示をできる歴史的な検証は少ない。


出自については二世紀頃、日本海側から畿内に進出した太陽信仰を持つ鍛冶(鉄加工)集団とする職掌説がある。

この日本海側を旧本拠地とする事で、因幡(いなば)の白兎(うさぎ)伝説が関わって居そうな推測も伺われる。

和邇氏(わにうじ)は、五世紀から六世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族で、本拠地は大和国添上郡和邇(現天理市和爾町・櫟本町付近)だった。

大王(おおきみ/天皇)家と姻戚関係を結び,多くの后妃を出した大和の臣(おみ)姓有力豪族とされる。


記紀神話(古事記・日本書紀)に於いて和邇氏(わにうじ)は、和邇臣(和珥)の始祖は観松彦香殖稲天皇(孝昭天皇)の長男の天足彦国押人命となっている。

しかし孝昭天皇には、皇統の根を反(かえ)した説もあり、和邇氏(わにうじ)には日本海側本拠地説があり、和邇氏(わにうじ)と皇統の絡みは説として弱い。

和邇氏(わにうじ)の支氏姓については、柿本人麻呂を輩出した柿本氏、遣隋使(けんずいし)・小野妹子(おののいもこ)を輩出した小野氏などの他、和仁氏、粟田氏、春日氏、大宅氏などが主な枝氏流として挙げられる。

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◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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# by mmcjiyodan | 2018-05-06 01:10 | Comments(0)  

楠本イネ(くすもといね・オランダおいね)

楠本イネ(くすもといね)は、出島オランダ商館に努めるドイツ人医師・フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘で、幕末から明治維新期に活躍した日本の女性医師である。

楠本イネ(くすもといね)は、千八百二十七年(文政十年)、ドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女であった瀧(たき)の間に生まれる。

日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。

「楠本(くすもと)」は母の姓で、父・シーボルトの名に失本(しいもと)と漢字を当て、「失本(しいもと)イネ」とも名乗った。

母の瀧(お滝)は商家の娘であったが、実家が没落し、源氏名「其扇(そのおうぎ、そのぎ)」として、日本人の出入りが極限られていた出島にてシーボルトお抱えの遊女となり、彼との間に私生児としてイネを出産する。


父・シーボルがドイツ人にもかかわらず、出島オランダ商館(長崎)に勤務して居た事から“オランダおいね”の異名で呼ばれた。

イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持ち、当時の出島の家族団欒の様子が川原慶賀の絵画に残っている。

ところが父・シーボルトは千八百二十八年(文政十一年)、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが二歳の時に国外追放となった。

イネは、シーボルト門下で卯之町の町医者・二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙(いしいそうけん)から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。


千八百五十八年(安政五年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、千八百五十九年(安政六年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。

シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人や娘・イネと交流し、日本研究を続け、千八百六十一年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。


千八百五十九年(安政六年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、千八百六十二年(文久二年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。

後年、京都にて大村益次郎が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。


ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。

宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもといとく)と名を改める。

千八百七十一年(明治四年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリヒ)の支援で東京は築地に開業した。

のち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金百円を下賜され明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。

異母弟ハインリヒとその妻・岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。

その後、千八百七十五年(明治八年)に医術開業試験制度が始まるも、女性であったイネには受験資格がなかった為、それと晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。

千八百八十四年(明治十七年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれるが、既に五十七歳になっていた為合格の望みは薄いと判断、[要出典]以後は産婆として開業する。


なお、イネは生涯独身だったが、産科の師・石井宗謙(いしいそうけん)との間に儲けた娘・タダが居た。

タダ自身の手記によれば、イネは石井宗謙によって船中で手籠めにされて妊娠した。

その後石井宗謙は、「師匠のシーボルトの娘に手をつけていた」として他のシーボルト門下生から非難され、イネは彼のことを激しく憎んだ。

彼女は未婚のまま一人出産し、生まれてきた私生児を「天がただで授けたもの」という意味をこめてタダと名付けたとされる。

後年、タダも母と同じく伊達宗城により改名を指示され、「高」と名乗った。

イネ六十二歳の時、娘・高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。

以後、イネは弟ハインリヒの世話となり余生を送った。

千九百三年(明治三十六年)、鰻と西瓜の食べ合わせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京の麻布で七十七歳で死去した。

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# by mmcjiyodan | 2018-04-30 17:08 | Comments(2)  

シ-ボルト(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト)

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトは、ドイツ人の医師である。

ドイツの外交官・ P.シーボルトの長子としてライデンに生をうけた。

シーボルト(Siebold)は、ドイツ系の貴族階級の姓である。

標準ドイツ語ではズィーボルトだが、南部では"s"が濁らないためスィーボルトとなり、日本語の慣用的表記で「シーボルト」となる。

日本で単に「シーボルト」というと、日本と深い関わりのあるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトを指すことが多い。


江戸時代後期の千八百二十三年(文政六年) 長崎オランダ商館の医師として来日する。

スィーボルトは、来日まもなく一緒になった日本女性の楠本滝との間に娘・楠本イネを千八百二十七年にもうける。

翌年長崎郊外鳴滝に診療所を兼ねた学塾を開き、伊東玄朴、高野長英(たかのちょうえい)、黒川良安ら数十名の門人に西洋医学および一般科学を教授した。

千八百二十六年、シーボルトはオランダ商館商館長の江戸参府に随行し、日本に関する研究資料をも集めた。

日本へ来たのは、ドイツ・プロイセン政府から日本の内情探索を命じられたからだとする説もある。

帰国に際し,いわゆるシーボルト事件(国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚)を起し処罰され、千八百二十六年(文政十二年) に日本から追放された。


千八百五十八年(安政五年)には日蘭修好通商条約が結ばれ、追放されたシーボルトに対する追放令も解除される。

千八百五十九年(安政六年)シーボルトは、父の再訪日に同伴してオランダ商事会社員として再来日する。

シーボルトは、幕末~明治期の医師・三瀬周三(みせしゅうぞう)らについて日本語を修得し、のち駐日イギリス公使館員 (通訳官) となり、幕府の外交にも参与する。

千八百六十二年(文久二年)、シーボルトは母国に帰国する。

千八百七十年(明治三年) 以後、シーボルトは日本政府の外務省、ローマ、ベルリンの日本公使館に奉職する。

シーボルトは、明治初期から中期にかけて日本の外交交渉に貢献し、千九百十年在職 四十年にあたり勲二等瑞宝章を受けた。

千九百十一年、母国ドイツ・ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して七十歳で死去した。

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# by mmcjiyodan | 2018-04-30 10:56 | Comments(0)  

出島オランダ商館(長崎)

千六百三十六年(寛永十三年)、江戸幕府はポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止するために、長崎の有力な町人に命じて岬の突端に人工の島を築き、ポルトガル人を収容した。

その島が、長崎の出島である。

その後、江戸幕府の鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止されると、一時出島は無人の島となる。

その後の千六百四十一年(寛永十八年)、平戸のオランダ東インド会社・オランダ商館が出島に移転を命じられる。

以来、千八百五十九年(安政六年)にオランダ商館(出島和蘭商館)が廃止されるまでの二百十八年もの間、欧州文化の窓口として日本の近代化に大きな役割を果たした。


千六百四十一年(寛永十八年七月)オランダ商館は長崎移転を命じられ、以前にポルトガル人収容のために築かれた扇形の小島(面積1万 3000m2余)である出島に移る。

千七百九十九年十二月三十一日、世界初の株式会社・オランダ東インド会社は解散、国営化する。

オランダ国営化ののちも、出島オランダ商館はその出先機関として存続して江戸幕府末期の開国までそこにあった。

出島には住宅,倉庫など多くの建物が設けられ、商館長以下数人から十数人のオランダ人が、許可された日本人の使用人を使って生活したが、出入りの制限をはじめ生活上は多くの拘束を受けていた。

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# by mmcjiyodan | 2018-04-30 10:52 | Comments(0)  

最上氏(もがみし)と最上義光(もがみよしあき)

最上氏(もがみし)は、清和源氏足利氏の支流であり、三管領の一つ足利流・斯波氏の分家にあたる。

最上氏の起源である斯波氏は、本来足利宗家となるはずだったものの北条氏の介入によって廃嫡され分家した足利家氏を祖とする。

南北朝時代の延文期(千三百五十六年 - 千三百六十年)に斯波氏傍流の奥州管領斯波家兼の子、斯波兼頼が出羽国按察使と称して出羽国最上郡山形(現・山形県山形市)に入部し、山形城を築城し本拠とする。


出羽国按察使・斯波氏分家は、室町幕府より屋形号を許されて最上屋形と称した事を機に所領の最上郡に因んで最上氏を称する事となった。

なお、山形を領した事から、山形氏と表記される事もある。

故に最上氏(もがみし)は、斯波最上氏とも斯波出羽家とも呼ばれる事がある。

最上氏(もがみし)は、室町幕府の羽州探題を世襲できる家柄で、後に出羽国の戦国大名として成長した。


最上氏初代・斯波兼頼以降、古代朝臣(あそん)・大江氏の支流である出羽国最上郡の南朝勢力・寒河江氏(さがえうじ)を、千三百六十八年の漆川の戦いで討伐一掃する。

兼頼は、二代直家・三代満直が最上郡・村山郡各地へ子らを分散配置する事により勢力を伸張するなど、室町時代に最初の最盛期を迎える。

しかし千四百六十九年(長禄四年)、五代義春の、古河公方討伐の御教書が最上氏とともに天童氏にも届けられるなど、分散配置した一族が独立傾向を強めていく。

また、庄内地方を納める大宝寺氏が出羽守を得るなど、中央での斯波氏の勢力低下の影響がこの地方にも見られていた。


千五百四年(永正元年)、最上義定が第九代の家督を継ぐと、後継者争いをする寒河江氏に三度攻め込み、実質的な傘下に置いた。

千五百十二年(永正九年)庄内で大宝寺氏と砂越氏が争うと、勝者の村山地方への進出を警戒し、義定は寒河江まで軍を進めた。

千五百十四年(永正十一年)義定は、侵攻した伊達氏と長谷堂城で戦って敗北し、伊達稙宗の妹を義定が娶(めと)り和睦した。

義定が後継男子を成さないまま死去すると、庶流中野氏から迎えた当時二歳の最上義守を傀儡(かいらい)として、伊達氏の介入を招いた。


戦国時代に入って伊達氏内部に天文の乱が起こると、成人した最上義守は伊達氏から長谷堂城を奪還して独立し、戦国大名の道を歩み始める。

義守の勢力拡張戦略は、千五百六十年(永禄三年)の寒河江氏攻めの失敗で頓挫するが、外交面では嫡男最上義光に将軍・足利義輝の偏諱を賜り拝謁し、また御所号を賜るなど一定の成果をあげる結果を得た。

また義守は、娘の義姫を伊達輝宗へ嫁がせ、義姫は伊達政宗を生んでいる。


最上義光の家督相続の際に父子相克の争い(天正最上の乱)が起こるが、義光が家督相続を果たす。

以後、義光は庶族の天童氏、近隣の白鳥氏・寒河江氏を滅ぼし最上郡および村山郡を平定する。

さらには、千五百八十五年から千五百八十六年(天正十五年から十六年)庄内地方をめぐり大宝寺氏・上杉氏と争い、また大崎氏を攻めた伊達氏を破り壊滅寸前まで追い詰めた。

しかし義光は、同時期十五里ヶ原の戦いで敗れ庄内地方への影響力を失う。

義光は惣無事令違反を訴えたが庄内は上杉氏領となり、この裁定は両家に禍根を残した。


千五百九十年(天正十八年)、義光は覇業を推し進める豊臣秀吉小田原征伐を機に臣従して本領を安堵され、山形城を居城にして二十四万石を領する。

翌千五百九十一年(天正十九年)には、最上家は雄勝郡を獲得した。


その後、最上義光は、娘・駒姫を関白・豊臣秀次の側室にしぶしぶ差し出す羽目に陥ったが、彼女は秀吉により秀次もろとも斬処されてしまった。

これ以前より義光は徳川家康に接近していたが、さらに豊臣氏と距離を置き徳川氏への傾倒を強めた。


秀吉の死後関ヶ原の戦いが起こると、義光は東軍に組し、西軍の雄である上杉景勝の侵攻を退ける「慶長出羽合戦」を戦う。

さらに翌年、上杉氏の本領から隔絶していた庄内へ攻め込み、上杉勢を駆逐した。

関ヶ原戦後に、最上氏はその恩賞で加増される。

さらに千六百二年(慶長七年)、置賜郡を除く現在の山形県全土と秋田県由利本荘市周辺を佐竹氏との領土交換により雄勝郡・平鹿郡と引き換えて手に入れる。

義光は、計五十七万石(実高は百万石とも称する)を領する大大名になり、最上氏は二度目の最盛期を迎える。


江戸時代に入ると、義光の後継をめぐって争いが起き、長子・義康の暗殺事件が起こる。

以降も家中の内紛はやまず、千六百二十二年(元和八年)、義光の孫・義俊の代には最上騒動が起こった。

義俊は家中の信望を失っており、最上氏は騒動を理由に幕命により改易される事となった。


この改易、宗家の斯波武衛家が滅亡していたので、斯波氏の流れをくむ最上氏は断絶を惜しまれ、近江国蒲生郡に一万石の知行を改めて与えられた。

しかし義俊の死後、子の義智が幼少であったために五千石に減知され(参勤交代等で財政が逼迫し、藩からの願いもあった)、子孫は交代寄合(大名待遇格)格・旗本扱い として存続した。

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# by mmcjiyodan | 2018-03-30 17:54 | Comments(0)