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阿波局(あわのつぼね)(保子)


阿波局(あわのつぼね/北条保子)は、北条氏の女性で鎌倉時代初期の京都御所に仕える女性。

鎌倉幕府二代執権・北条義時(ほうじょう よしとき)の長男・鎌倉幕府第三代執権・北条泰時(ほうじょう やすとき)の実母とされる。

初代執権・北条時政(ほうじょう ときまさ)の娘で異母姉妹に源頼朝(みなもとのよりとも)継室・北条政子(ほうじょうまさこ )が居る。

兄弟に鎌倉幕府二代執権・北条義時(ほうじょう よしとき)らがいる。

土豪の娘に生まれた北条保子(阿波局/あわのつぼね)は、異母姉・政子(まさこ)が源氏の頭領源頼朝(みなもとのよりとも)と恋仲になり親の意思には逆らって一緒に成った事で北条保子(阿波局/あわのつぼね)の運命も変わった。

異母姉・政子と結婚した義兄・源頼朝(みなもとのよりとも)の異母弟である頼朝の父・義朝(よしとも)の七男・阿野全成(あの ぜんじょう)に嫁ぎ、四男・時元(ときもと)を儲ける。

その後、阿波局(あわのつぼね/北条保子)は甥である頼朝(よりとも)の次男・源実朝の乳母となる。

阿野全成(あの ぜんじょう)の妻とされるが、『吾妻鏡』には全成(ぜんじょう)の「妾」と記されている。



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by mmcjiyodan | 2020-11-18 18:21  

二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)


二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。行政( ゆきまさ)は、代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。

苗字二階堂(にかいどう)は、建久三年(1192年)11月25日に建立された永福寺(二階建ての仏堂があった)の周辺に、行政(ゆきまさ)が邸宅を構えたことに由来する。

家系は藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れで父は工藤行遠(くどうゆきとう)、母は源頼朝の外祖父で代熱田大宮司・尾張目代(律令制の官職)・藤原季範(ふじわら の すえのり)の妹である。

父・行遠(ゆきとう)は工藤氏の流れ代々従五位下の下級貴族。

「工藤二階堂系図」では維遠、維行、維頼、行遠の四代が遠江(とうとうみ)守に任官したことになっている。

父・行遠(ゆきとう)は『尊卑分脈』傍注によると、遠江国司を殺害して尾張国に配流されたとあり、おそらくそのときに熱田大宮司・藤原季範の妹との間に行政( ゆきまさ)が生まれている。

行政(ゆきまさ)は母方が熱田大宮司家であった縁により源頼朝に仕えたものと思われる。


治承四年(1180年)6月29日に公家・桓武平氏高棟流・平時忠(たいら の ときただ)が伊豆の知行国主に任官する。

知行国主・平時忠(たいら の ときただ)が兼隆(かねたか)の目代任命(律令制下の地方官の代官)するを機に北条時政(ほうじょうときまさ/平時政)は娘・北条政子(ほうじょうまさこ)を兼隆に嫁がせようと画策する。

帰国の道中に兼隆との縁談を進めていた時政は平家の怒りを恐れ、娘・政子を兼隆のもとへ送ろうとするが、勝気な政子は逃げ出して頼朝のもとへ行ってしまう。

同治承四年(1180年)8月、源頼朝に従う行政(ゆきまさ)は以仁王(もちひとおう)の令旨を受け挙兵、伊豆目代(律令制下の地方官の代官)・山木兼隆(やまきかねたか)の館を急襲する。


三島大社の祭礼のために郎党の多くが留守だったため山木兼隆(やまきかねたか)は満足に戦うことができず、頼朝配下・加藤景廉(かとうかげかど) によって討たれた。

二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)は鎌倉幕府成立に貢献して頼朝(よりとも)に重用される。

文治五年(1189年)7月、奥州藤原氏頭領・藤原秀衛(ふじわらひでひら) との奥州合戦では、合戦の次第を報告するにあたってそれを行政(ゆきまさ)が書いた。

建久四年(1193年)、行政( ゆきまさ)は五位に叙され民部大夫(律令制の官職)と呼ばれるようになり、同年に鎌倉幕府政所別当が複数制になった時に別当に昇格した。政所においては別当頭大江広元 (おおえのひろもと) を補佐し、広元(ひろもと) が在京して不在の折には代わって政所の業務を統括した。



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by mmcjiyodan | 2020-11-16 13:23  

三善 康信(みよし の やすのぶ)


三善 康信(みよし の やすのぶ)は、鎌倉幕府の初代問注所執事や鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

元々三善家は算道の家柄で太政官の書記官役を世襲する下級貴族の出身で、父は三善康光(みよし の やすみつ)、または康久(やすひさ)とされる。

康信 (やすのぶ)は母が源頼朝(みなもと の よりとも)の乳母・(特定は定かでないが、比企尼又は寒河尼又は山内尼)の妹であり、その縁で流人として伊豆国にあった頼朝に、月に三度京都の情勢を知らせていた。

治承四年(1180年)5月の以仁王(もちひとおう)の挙兵の二ヶ月後、康信( やすのぶ)は頼朝に使者を送り、諸国に源氏追討の計画が出されているので早く奥州へ逃げるように伝えるなど、頼朝(よりとも)の挙兵に大きな役割を果たした。

元暦元年(1184年)4月、康信は頼朝(よりとも)から鎌倉に呼ばれ、鶴岡八幡宮の廻廊で対面し、鎌倉に住んで武家の政務の補佐をするよう依頼されこれを承諾した。

頼朝(よりとも)の落馬死後、二代将軍・源頼家(みなもと の よりいえ)の独裁ぶりに不安を抱いた御家人の代表による十三人の合議制にも参加する。

承久三年(1221年)の承久の乱に際しては病身の身で会議に参加、大江広元((おおえのひろもと) )の即時出兵論を支持した。

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by mmcjiyodan | 2020-11-16 12:10  

中原親能 (なかはら の ちかよし)


宿老・政所公事奉行・中原親能 (なかはら の ちかよし)は、鎌倉幕府十三人の合議制の内の一人を務める。

中原親能 (なかはら の ちかよし)は、鎌倉幕府の草創期に源頼朝に招かれて下向した公家出身の御家人

宿老・政所別当を務めた大江広元の兄に当たる。

中原親能(なかはらのちかよし)は挙兵以前の源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。

一説には、頼朝が伊豆国の流人の身の頃から親交があって、源頼朝が挙兵すると関東に走り頼朝の側近となったともいわれるが定かではない。

宿老・中原親能(なかはらのちかよし)は三浦大介義明の嫡男で頼朝の源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いに敗れ、安房国に渡った将軍・源頼朝を助けた武将で頼朝の征夷大将軍の辞令を朝廷から受け取った。

中原親能(なかはらのちかよし)は、千百八十三年(寿永二年)に頼朝弟・源義経の軍勢と共に上洛し、翌年の正月にも再度入京して頼朝代官として万事を取り仕切り、貴族との交渉で活躍していた。中原親能(なかはらのちかよし)は、鎌倉幕府では軍事・行政を補佐し、京都守護・政所公事奉行など重職を歴任する。

1185年(元暦2年)の平家追討では、西海(九州)において特に功があったとして、北条義時・小山朝政・小山宗政・葛西清重・加藤景廉・工藤祐経・宇佐美祐茂・天野遠景仁田忠常・比企朝宗・比企能員とともに頼朝から感状を受けている。

1186年(文治二年)、頼朝に次女の三幡(さんまん)が誕生すると、親能の妻が乳母に就任する。

1199(建久十年)1月13日に主君・源頼朝が落馬事故で死去し、同年六月三十日、頼朝に次女・三幡(さんまん)が死去したことに伴い親能は出家する。

1189年(文治五年)の奥州征討にも中原親能(なかはらのちかよし)は従軍している。


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by mmcjiyodan | 2020-11-14 22:43  

鎌倉幕府十三人の合議制


1199年(建久十年)一月十三日、将軍・源頼朝が死去すると、頼朝・嫡男頼家が源家の家督を相続し第二代鎌倉将軍を就任する。

北条政子(ほうじょうまさこ)北条時政(ほうじょうときまさ)北条義時(ほうじょうよしとき)など北条家の一族は、二代将軍・源頼家の権力を北条家が剥奪する体制鎌倉幕府十三人の合議制・・・を画策、成立に成功する。



同年4月12日、北条時政北条政子は頼家の訴訟親裁権を停止し、宿老十三人による合議制によることを決定した。

理由は頼朝・嫡男頼家が若年であるとのから執られた非常時措置のようでもあるが、頼家の乳母夫比企氏と北条氏の対立など、幕府の実権争いが根底にあったものと考えられる。

この決定に反発した頼家は、対抗手段として小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成らの近習衆五人を指名して、この五人に手向かってはならず、この五人でなければ目通りを許さないという決定を下している。

この為。頼家の母・北条政子と政子の父親・頼家の外祖父・宿老・北条時政がはからい初代鎌倉将軍の源頼朝の有力武将鎌倉御家人(かまくらごけにん)十三人よる宿老合議制を初代執権・北条時政を中心に発足させる。

宿老・北条義時、1205年(元久二年)の畠山重忠の乱・牧の方の陰謀を機に北条時政の嫡男・北条義時が二代執権となる。

宿老・政所別当・大江広元は鎌倉幕府の基礎を築き上げた公家で、将軍・源頼朝の死後も幕府の中で中心的な役割を担う。

宿老・問注所執事・三善康信は宿敵・平家により伊豆の蛭ヶ小島に流されていた将軍・源頼朝に、定期的に京都の情報を伝えていた公家で母が頼朝の乳母の妹だった。

宿老・政所公事奉行・ 中原親能 (なかはら の ちかよし)は宿老・大江広元の兄で公家出身の御家人で将軍・源頼朝の次女三幡の乳母夫。

宿老・中原親能は三浦大介義明の嫡男で源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いに敗れ、安房国に渡った将軍・源頼朝を助けた武将で頼朝の征夷大将軍の辞令を朝廷から受け取った。

宿老・三浦義澄は源義朝の落胤ともいわれ、将軍・源頼朝の挙兵に参陣重陽され後に頼朝の異母弟宿老・阿野全成を討った(阿野全成の誅殺)

宿老・和田義盛・侍所別当で三浦大介義明の孫。和田合戦で滅亡。宿老・比企能員(ひきよしかず)は源頼朝の乳母比企尼の養子、源頼家の乳母夫。比企の乱で滅亡。

宿老・安達盛長は源頼朝の乳母・比企尼の娘婿で伊豆の蛭ヶ小島に流されていた源頼朝を援助した武将。

宿老・足立遠元は宿老・安達盛長の甥にあたるも足立氏の祖。

宿老・梶原景時は石橋山の戦いで平家方にありながら源頼朝を助けた。源頼家の乳母夫で失脚後に梶原景時の変を起こし討死する。

宿老・政所執事・二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)は宿老・大江広元、宿老・三善康信と並んで源頼朝を支えた実務官僚で政所執事を務めた公家。

以上十三人の合議制は、1199年(建久10年)の年末には宿老・梶原景時が失脚、翌年には宿老・三浦義澄と宿老・安達盛長が死去したことで解体され、いよいよ北条執権家が得宗家として実権を握った。

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by mmcjiyodan | 2020-11-14 13:15  

明治維新のミステリー


明治維新によみがえる南朝・後醍醐天皇の系図、仕掛けたのは、吉田松蔭門下生と尊王派の公家達・・・・その噂は本物か?。北斗妙見信仰に端を発する大内家から毛利・長州藩まで、脈々と守護し続けた皇統の隠し玉、それは歴史の綾だったのか、それとも必然性だったのか。

「七卿落ち」(八月十八日の政変)で 七卿は逃れた長州の地で、松陰派にある人物と引き合わされている。

和暦・文久三年八月の変(千八百六十三年)で尊皇攘夷派の長州藩は抗争に破れ、京都を追われ、薩摩・会津の連合軍が代わって警備についた。

会津・薩摩の藩兵が皇居九門の警護を行う中、中川宮や公武合体派の近衛忠熙、近衛忠房を参内させて尊攘派の公家(三条実美以下十九人)は朝廷から追放され、長州藩は京都堺町門の警備を免ぜられて毛利敬親・定広親子は国許に謹慎を命じられた。

都に居た長州藩の藩兵は本拠の長州国表に落ち延びる。この撤退を指揮した秀才「久坂玄瑞(くさかげんずい)」と伴に、同じく尊皇攘夷派の為、長州に流れ下った公家が七人居た。

これを、「七卿落ち」(八月十八日の政変)と言う。

この、落ち延びた七卿の行く先に、吉田松蔭の描いたシナリオが待っていたのである。


「維新の十傑」に数えられる人物は、公家の岩倉具視、長州藩は大村益次郎木戸孝允(桂小五郎)前原一誠・広沢真臣の四名、薩摩藩は西郷隆盛大久保利通小松帯刀の三名、そして肥前藩から江藤新平、肥後藩から横井小楠の各一名である。

維新の十傑の内、岩倉具視を除く九名全員が明治十年前後の「紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)」までに、暗殺もしくはなんらかの理由で死亡している。

十傑が去った後に明治政府を主導して行ったのは、何故か伊藤博文山県有朋井上馨と言った長州藩出身者に絞られた元老達である。

その歴史的事実に「隠された明治維新」にまつわる噂の謎のミステリーが存在する。

詳しくは関連記事【
異聞・隠された明治維新】に飛ぶ。
詳しくは関連記事【幕末~明治維新・人名と事変リスト】に飛ぶ。



◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
◆このコンテンツ(記事)を「引用」・「転載」する時は、必ず原作者名・未来狂冗談を明記した上で出典元の当方アドレスをリンクで貼って下さい。


第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2020-11-13 12:47  

皇統が永く続いた訳


周知のごとく「日本の皇統は凡そ三千年間の長期に渡る歴史を持っている」と言われている。

本来、日本の国の歴史と皇統は切っても切れない「日本人の精神的象徴」となつている歴史的実事が存在し天皇は民衆の尊敬を集めている。

日本人の成り立ちを考えるなら、「日本人の祖先は何処から来たのか?」と言う事の始まりから考える必要があるのに、「天孫降(光)臨伝説」と言う歴史的な捏造(ねつぞう)が、歴史学のまやかしになっている。

ヨーロッパや中国の皇帝は武力を持っ実力者の「取って代わろう」と言う野望に地位を奪われてきた。

ヨーロッパや中国と違い日本の皇統が永く続いた訳は時の実力者(領主)が民をひれ伏され納得させる「統治に裏つけ保障と証明」が必要だったからである。

日本列島に於いて、古来から統治に際する領主の地位の裏つけ保障と証明は天皇から授けられる形で存在していた。

だからこそ、どんな有力者が他から現れても連綿と天皇家(皇室)の存在が実力者(領主)の追認機関として成立していた。


日本人の永年培われた皇統を敬(うやま)う感性は脈々と続けられて来た。

しかしその天皇家(皇室)の保障と証明の裏つけは、古事記日本書紀に関わる三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)と言う証明物の所持を以て納得させると言う手段しか無かった。

誤解されては困るが、例え出発点が天孫降臨伝説や天皇制の根拠が歴史的な捏造(ねつぞう)であっても、二千年以上の歴史が在る天皇制の現在や各神社それぞれの歴史は、長期に渡り現存するのだからその現在を筆者が否定する訳では無い。


この日本人の心のルールに唯一反逆を試みたのが戦国時代を代表する最も有名な武将の一人・織田信長だった。


詳しくは【【織田信長の「大虚(おおうつ)け」を解説する】】に飛ぶ。
詳しくは【【「本能寺の変」の謎・光秀の本能寺】】に飛ぶ。

第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2020-11-04 12:23  

渋沢栄一(しぶさわえいいち)


明治時代の日本を代表する実業家と評価される渋沢栄一は、江戸時代末期天保11年(1840年)2月13日に武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に農民(名主身分)父・渋沢市郎右衛門元助(1810年 - 1871年)、母・エイの長男として生まれた。

渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。
栄一の幼名は栄二郎でのちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎を名乗る。

家業の環境で原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。

豪農・名主身分に生まれた栄二郎は五歳の頃より父から読書を授けられ、七歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や「日本外史」を学ぶ。

剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んだ。十九歳の時(1858年)には惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改める。

剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。

京都に出るが八月十八日の政変(文久3年(1863年))直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになった。

仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。

主君の一橋慶喜が将軍となったこと(慶応2年(1866年)12月5日-慶応3年(1867年)12月9日)に伴って渋沢栄一は幕臣となった。

慶喜の異母弟・徳川昭武(後の水戸徳川家11代当主)の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航・パリ万博とヨーロッパ各国訪問を経験する。

渋沢栄一は徳川昭武の随員として渡欧を機会にパリに留学する。

渋沢栄一はフランス滞在中に、幕府方御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役の幕府要職に転じている。

帰国後は、大政奉還が為され静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも、慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受。

明治二年(1869年)1月に静岡で商法会所を設立するも明治政府の大隈重信に説得され、十月には大蔵省に入省する。

大蔵官僚としては民部省改正掛(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。。

1873年5月7日、大蔵大輔井上馨と大蔵省三等出仕渋沢で財政改革意見を建議し、建議書が『日新真事誌』などに掲載され、論議を生んだ。

井上馨と渋沢は予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、1873年5月7日、大蔵大輔井上馨と大蔵省三等出仕渋沢で財政改革意見を建議し、建議書が『日新真事誌』などに掲載され、論議を生んだ。明治六年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官した。

退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(のちの第一銀行ならびに第一勧業銀行、現・みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。

渋沢は第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。

第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、王子製紙(現・王子製紙、日本製紙)、田園都市(現・東急)、秩父セメント(現・太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)、サッポロビール(現・サッポロホールディングス)、東洋紡績(現・東洋紡)、大日本製糖、明治製糖、澁澤倉庫など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。

1909年6月6日、渋沢栄一は七十歳に達し、財界引退を表明し、第一銀行・東京貯蓄銀行をのぞく61の会社役員を辞任する。

財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれた。

これは死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。

生前商法講習所(現・一橋大学)、大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。

昭和六年(1931年)渋沢栄一は九十二歳で死去する。

時代背景の詳しくは【第五巻】に飛ぶ。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
◆このコンテンツ(記事)を「引用」・「転載」する時は、必ず原作者名・未来狂冗談を明記した上で出典元の当方アドレスをリンクで貼って下さい。


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by mmcjiyodan | 2020-11-02 15:07  

少子化問題と出産適齢期


この日本史検索で時代ごとの性風俗をエロチックなエピソードとして取り上げると、現代の倫理観に照らして声高に否定する感性が生まれる良識的な御仁(ごじん)も居(お)られるが、その時代ごとに性風俗を形成された歴史的事実は認めなければ成らない。

時代ごとに社会常識が変遷するのは、歴史が証明している。

現代では不妊治療技術が解決の一旦を担っているが、この技術が無い時代で「止む負えない手段」として庶民の知恵として、問題解決の方便として、「神からの授かりもの」と暗黙の了解を得ていたのが「祭りの夜の子種」の存在である。

歴史が現代化するとともに「女性の結婚の適齢期」という社会合意時期が遅れて、現代社会では三十歳頃の「ソロソロ結婚しようか」となるが、江戸時代だったら「十五歳から十八歳が結婚の適齢期」で三十路(みそじ)は大年増(おおどしま)で結婚には敬遠される年齢である。

つまり人類文明は必ずしも自然の摂理とは関係ない社会的合意を形成する。

古い歌詞に在るように「十五で姉いや~あ嫁に行き~。」が一般的な社会常識だった。

人間の生理学的には極自然に「出産に適しているのは母体が十五歳から十八歳」の時であるから現代の晩婚化は少子化問題とリンクしている。

自然に{肉体的には出産適齢期}で現代文明社会では{子育て大難時代}にしてしまいそれを塗布密閉する為に{淫行条例}と不自然な現実を創造してしまった。

従って子を為すのに母体の適齢期は「十五歳から十八歳」が正しいのにそれを言えば現在の社会合意に反して「不都合な事実」で世間から袋叩きに合う

つまり時代ごとに社会常識が変遷し、その時点での判断基準に照らして厳密に歴史評価を判断為さなければ成らない。

倫理的にも、時代ごとに社会常識が変遷すると言えば・・・「人間は働かなくては成らない」し{人間は殺しては成らない」そして「人間は盗んでは成らない」。

しかし時代に依っては、統治者の都合により「戦働き(いくさばたらき)で人殺し」が評価され国盗り物語が盗みを合法化して来た歴史が現実に存在する。


詳しくは【暗闇祭り(くらやみまつり)の歴史認識】を参照下さい。

◆このコンテンツ(記事)を「引用」・「転載」する時は、必ず原作者名・未来狂冗談を明記した上で出典元の当方アドレスをリンクで貼って下さい。


第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2020-11-01 17:56  

日本語漢字に音読み訓読みが在る訳

日本語に、中国語・韓国語に無い「音読み訓読み」が在る。

これは日本人なら当然知っておかねばならない

中国語(中文/ツンウェン)で「タゥ」と発音する「桃」は日本語では「トウ」と発音し、明らかに元が中国語(中文)に起因しているが、もう一つの「モモ」と読むのはどこから来たのだろうか?

人は、存在する現実には中々疑問を抱かない。

それは「存在するものだから当たり前」と思い込み、当然の存在と認識するからそれ以上深くは考えない。

しかしながら貴方が使っている日本語、結構面白い経緯が在って成立しているので、その事を御紹介する。

予(あらかじ)め断って置くが、これはあくまでも「日本語のルーツ」つまり「原型」の話しであり、その「原型」に渡来流入する人種の様々な言語が加わりまたは外されて今日の日本語に到っている。


筆者は、漢字(中華大陸文字)の日本読みに、同じ漢字圏の大陸(中国)や半島(韓国・北朝鮮)の国には無い「音読み訓読み」が有る事に着目した。

「音読み訓読み」が有る事は、他国から「日本語は難しい」と言われる要因の一つに成っているものだが、本来言葉は正確に確実に意志を通じさせたい為のものだから、それを何故複雑にして難しくしてしまったのだろうか?

それには、今から記述する合理的な理由が存在したのである。


日本語のルーツについては、アルタイ起源説 、高句麗語同系説 、朝鮮語同系説、オーストロネシア(ミクロネシア)語起源説(混合語起源説) 、クレオールタミル語説などが「これまでに唱えられた主要な説」とされる。

各説を主張する学者の間で色々と論議が盛んだが、どれも多少は正解であり、そんな不確かなものを単純にどこか一つに軍配を上げようとするのは間違いである。

つまり日本列島には、多種多様の渡来人に拠り多くの原語が流入した事実から、その内の一種を取り上げてその原語が「日本語のルーツである」と主張するのは余りにも強引な論法である。

実はそれらの原語は、日本語成立にとっては素材に過ぎない。

であるなら、その流入した多くの原語が整理を見た時が、「日本語のルーツとして成立した」としなければ成らないのである。

まぁ、唱えられた主要な説を川に例えると源流の小さな川達(支流)であり、それらが日本列島で合流して本流(日本語のルーツ)と成ったものである。

つまり、支流が合流して本流と成った時点、縄文期から弥生期へ移行する言語的過程で起こり得た事が、まさに「日本語のルーツ」ではないだろうか?

勿論、縄文人(蝦夷族)には原語は在っても文字はなかった。

そしてその後、半島や大陸から日本列島に渡来して来た人々が、縄文人(蝦夷族)と共生して弥生人となった時にも、まだ意志を伝える原語だけで文字はなかった。

その後、半島や大陸から新たな文明を携えて部族単位で征服に遣って来た部族が、弥生原語の意味と漢字の意味を突き合わせて自動翻訳化する音訓二重発音の読み方を編み出した。


日本史に登場する「大和言葉(やまとことば)」と言う表記には、正直少々疑問が在る。

実はこの「大和言葉(やまとことば)」の表記には、蝦夷(エミシ)族の存在を抹殺する意図が在るからだ。

原在、「日本の最も古い言葉」と伝えられる「大和言葉(やまとことば)」が残る主な地域は、日本列島の両端(りょうはし)に当たる青森県と沖縄県と言われている。

つまり「大和言葉(やまとことば)」とは、そのルーツが「蝦夷(えみし)言葉に在る」と充分に推測できるのである。

にも拘(かかわ)らず、渡来部族が先住民族(蝦夷/エミシ)の地を乗っ取った歴史を「大和言葉(やまとことば)」の名称で隠蔽(いんぺい)してしまったのだ。


詳しくは【日本語のルーツと安倍氏】に飛ぶ。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。
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by mmcjiyodan | 2019-11-05 12:07