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元正天皇(げんしょうてんのう/女帝)

元正天皇(げんしょうてんのう/第四十四代女帝)は、天武天皇の皇太子であった草壁皇子の長女・氷高皇女(ひたかひめみこ)として生まれる。

天皇の嫡孫女として重んじられたようで、天武十一年(六百八十二年)八月に、氷高皇女(ひたかひめみこ)の病により、罪人百九十八人が恩赦されている。

翌天武十二年(六百八十三年)、三歳下の同母弟・珂瑠(のちの文武天皇)が誕生する。

氷高皇女(ひたかひめみこ)=元正天皇(げんしょうてんのう/第四十四代女帝)の父は、天武天皇と持統天皇(女帝)の子である草壁皇子、母は元明天皇(げんめいてんのう/女帝)である。

その氷高皇女(ひたかひめみこ)は、文武天皇の姉でもある。


元正天皇(げんしょうてんのう)は、日本の女帝としては五人目の即位であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃であった。

対して、氷高皇女(ひたかひめみこ)には結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。

元正天皇(げんしょうてんのう)在位は、七百十五年から七百二十四年までの九年間と、次天皇成長までのつなぎの女帝らしく短い。


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by mmcjiyodan | 2018-01-28 16:12 | Comments(0)  

元明天皇(げんめいてんのう/女帝)

元明天皇(げんめいてんのう/第四十三代女帝)は、藤原京から平城京へ遷都、「風土記」編纂の詔勅を出し、先帝・文武天皇(もんむてんのう)から編纂が続いていた「古事記」を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。

元明天皇(げんめいてんのう)は、天智天皇の皇女で阿陪皇女(あへのひめみこ)を名乗っていた。

持統天皇とは関係が複雑で、父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。

さらに、大友皇子(弘文天皇)は異母兄であり、天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子(くさかべのみこ)の正妃であり、文武天皇元正天皇の母である。


天武八年(六百七十九年)頃、阿陪皇女(あへのひめみこ/元明女帝)は、一歳年下である甥の草壁皇子(くさかべのみこ)と結婚する。

天武九年(六百八十年)に氷高皇女(ひたかのひめみこ)を、天武十二年(六百八十三年)に珂瑠皇子(かるのみこ)を産んだ。

天武十年(六百八十一年)に夫の草壁皇子(くさかべのみこ)が皇太子となるものの、持統三年(六百八十年)に草壁皇子(くさかべのみこ)即位することなく早世する。


姉で義母でもある鸕野讃良皇女(持統天皇)の即位を経て、文武元年八月(六百九十七年)に息子の珂瑠皇子(かるのみこ)が文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)として十五歳で即位し、同日阿陪皇女(あへのひめみこ)自身は皇太妃(太上天皇代)となった。

しかし慶雲四年(七百七年)、息子の文武天皇が病に倒れ、二十五歳で崩御してしまう。

残された孫の首皇子(おびとのみこ/後の聖武天皇)はまだ幼かったため、阿陪皇女(あへのひめみこ)は中継ぎとして、初めて皇后を経ないで元明天皇(げんめいてんのう/第四十三代女帝)として即位した。


慶雲五年(七百八年)、武蔵国秩父(黒谷)より銅(和銅)が献じられたので、文武天皇(もんむてんのう)は年号を和銅に改元し、和同開珎を鋳造させた。

この時期は大宝元年(七百一年)に作られた大宝律令(たいほうりつりょう)を整備し、運用していく時代であったため、実務に長けていた藤原不比等(ふじわらふひと)を重用した。


和銅三年(七百十年)、文武天皇(もんむてんのう)は藤原京から平城京に遷都した。

左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣・藤原不比等が事実上の最高権力者になった。

和銅五年(七百十二年)正月には、諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う旨の詔を出した。

和銅五年には天武天皇の代からの勅令であった「古事記」を献上させ、翌和銅六年(七百十三年年)には「風土記」の編纂を詔勅した。


和銅八年(七百十五年)には郷里制が実施されたが、同年、文武天皇(もんむてんのう)は自身の老いを理由に譲位する事となる。

孫の首皇子(おびとのみこ)はまだ若かったため、娘の氷高皇女(ひたかのひめみこ/元正天皇)に皇位を譲って同日太上天皇となった。


また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。


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by mmcjiyodan | 2018-01-28 15:57 | Comments(0)  

大宝律令(たいほうりつりょう)

日本の律令律令(りつりょう)制度は、蘇我馬子(そがのうまこ・蘇我稲目の子)大和朝廷の実権を握っていた大和朝廷・用明大王(ようめいおおきみ/天皇・第三十一代)の御世当時、中国・唐帝国のものを参考に日本の律令制度は作られた。

しかし当初は唐の律令をそのまま受け入れて制定したので日本の国情に則さないものが多く、徐々に修正を加えて日本の国情に合う様な律令を完成させるまでには、かなりな歳月を費やしている。


七世紀後半、当時のヤマト王権は、唐の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。

その集大成が、第四十代・天武天皇の御世である六百八十一年から二十年を費やした大宝律令の完成であった。


七百年(文武四年)に令(れい)がほぼ完成し、残った律(りつ)の条文作成が行われ、七百一年(大宝元年八月三日)、第四十四代女帝・元正天皇の御世である大宝年間に大宝律令として完成した。

これにより、日本の律令制が成立したとされている。


大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。

刑法にあたる六巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる十一巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。


この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。

役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。


また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。


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by mmcjiyodan | 2018-01-27 21:24 | Comments(0)  

初期日本の神話伝説由来(しょきにほんのしんわでんせつゆらい)

初期日本の神話伝説の元を正せば、日本列島の原住民である蝦夷族(えみしぞく)土地と政治的支配権を奪った後発の渡来部族が、相対的には少数の支配階級・氏族に納まった事に始まっている。

渡来氏族が、土地と蝦夷(えみし)の支配権の正統性確立の為に捏造(ねつぞう/でっち上げ)たのが古事記日本書紀天孫降臨伝説などの神話伝説である。

つまり当初は、大国主(後の天皇)を中心とした中央の大和朝廷と、地方の国主(くにぬし)=国造(くにのみやっこ・こくぞう)県主(あがたぬし)が中央と地方を分担して治めている。

その中央と地方とを分担して治める特殊階級を、氏姓(しせい)を名乗る氏族として、自らを「神」と名乗って氏神(うじがみ)=氏上(うじがみ)=鎮守(神)様が地方に定着して行く。


天からの降臨神(氏族)が支配する大和国や地方の土地としての正統性の証明に、古事記・日本書紀の捏造(ねつぞう)に依る天皇制の確立意図や神社伝承だった。

そしてこの捏造(ねつぞう)伝承を日本列島の津々浦々まで伝播の画策をする役目を秘密裏に負ったのが、役小角(えんのおずぬ)率いる初期の修験道士だった。

誤解されては困るが、例え出発点が天孫降臨伝説や天皇制の根拠が歴史的な捏造(ねつぞう)であっても、二千年以上の歴史が在る天皇制の現在や各神社それぞれの歴史は、長期に渡り現存するのだからその現在を否定する訳では無い。

つまり日本神話伝説の根底に在るのは「感性」の歴史伝説であり、論理的な「理性」の歴史とは相容れないものである。

だとしても、現実的でない天孫降臨伝説などの伝説のそこは、当時の統治上のフィクション(虚構)であり、これを歴史的事実として主張してはならない。

正しい日本史を学ぶ者としては、これは綺麗事にフィクション(虚構)を創作して歴史や人間の醜い部分を覆い隠すか、シリアス(まじめ/本気)に歴史捏造の意図を曝(さら)け出すのかの問題ではある。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-12-28 11:13 | Comments(0)  

オキシトシン(脳内愛情麻薬・抱擁ホルモン)

多少の個体差が在るので一律的な効果とは言えないが、「女性は一度男性と性交渉をしてしまうと、身体の中に何か「特別な物」が分泌されて、相手にすごく執着してしまう」と言う現象がある。

その「特別な物」が、オキシトシン(脳内愛情麻薬・抱擁ホルモン)である。


このオキシトシン(脳内愛情麻薬)は、一目惚れの作用をさせる「脳内ホルモン・フェール・エチル・アミン (トキメキホルモン)」の結果で発生する物質ではない。

つまり一方的な感情では無く、あくでも接触行為が実在してから発生する分泌ホルモンである。

食事や性行為の際に分泌放出される安全な脳内麻薬(快感ホルモン)・ベータ・エンドロフィンにうながされて発生する特別な分泌ホルモンがオキシトシン(脳内愛情麻薬)である。

オキシトシンは「愛情ホルモン」とも呼ばれる脳内物質で、性行為以外では、女性が赤ちゃんに触れる時や母乳を飲ませる時、ペットに触れた時などにも分泌される。

この「抱擁ホルモン」とも言われるオキシトシンは、愛撫や抱擁などの皮膚接触や性交渉による子宮頚部(しきゅうけいぶ)への刺激によって女性の脳内に大放出される。

つまり女性には、性交渉をすると「オキシトシン」というホルモンが男性よりも多く分泌される。

このオキシトシンのパワーは強力で、分泌されると性交渉相手への愛情が強まり、無意識に離れ難(がた)くなる。

よく世間の評価では、「あの女性(ひと)、何であんな男から離れない?」と言う事例が存在するが、これはオキシトシン(脳内愛情麻薬)の為せる現象である。

産んだ子を捨ててまで愛人と出奔(しゅっぽん)する女性も、オキシトシン(脳内麻薬)効果が働いての間違いと言える。


このオキシトシン(脳内麻薬)効果の証明は、日本の旧来の親同士が勝手に決めた婚姻形態で説明が着く。

以前の日本の婚姻形態では、親同士が勝手に決めた婚姻や親の都合の政略結婚で「新婚初夜まで相手の顔さえ見た事が無かった。」なんて事も多々在った。

しかし初夜で初対面だったとしても、その夫婦が結婚後に関係が成立するのはその後の性交渉に依るオキシトシン(脳内愛情麻薬)の効果である。

現代の建前では違うかも知れないが、実は男性と女性はその気になれば、昔も今も愛情など無くとも性交行為は出来る。

その性交行為で女性がイク(絶頂)に達してしまえば、その快感がオキシトシン(脳内愛情麻薬・抱擁ホルモン)を発生し、相手に女性の愛情が芽生える理屈が成立する。


小論【美しくなれる興奮の解説】をお勧めします。


性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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詳しくは・関連小論記事
吊橋効果(つりばしこうか)の心理を検証する】を参照。
オレオレ詐欺と占術霊感商法】を参照。
私の愛した日本の性文化】を参照。
美しくなれる興奮の解説】を参照。
地球を救う「共生主義」と言うイデオロギー】を参照。

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by mmcjiyodan | 2017-11-15 14:50 | Comments(0)  

信長の首塚伝承(西山本門寺)

さて、本能寺の変後に行方(ゆくえ)が判らない織田信長についての伝承は多々在るが、筆者は有力と思える「信長の首塚伝承」を有する富士宮・西山本門寺(にしやまほんもんじ)を紹介する。

静岡県富士宮市西山に、西山本門寺(にしやまほんもんじ)は在る。

西山本門寺(にしやまほんもんじ)の開山は、日蓮(にちれん)の高弟六老僧の筆頭であり、白蓮阿闍梨と称する鎌倉時代の僧侶・日代である。

日代は日興門流の祖であり、富士大石寺の開山にして日蓮正宗第二祖に列せられる 。

その西山本門寺(にしやまほんもんじ)の寺伝によると、本能寺の変の折に第十八世貫主だったのは日順である。

日順の父・原宗安(はらむねやす・原志摩守)は、本因坊日海(本因坊算砂)の指示により、織田信長の首を西山本門寺まで持ち帰り、柊(ひいらぎ)を植え首塚に葬ったという。

その首塚上の柊(ひいらぎ)、現在では静岡県指定天然記念物の大柊(だいひいらぎ)として健在である。

つまり信長公の御遺体も、首から上が無くては誰の身印(みしるし)と特定など出来ない理屈である。


僅かな供回りを連れて本能寺に泊まったこの信長の本能寺宿泊には、囲碁の当世第一人者である顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)・寂光寺(じゃっこうじ)の僧・日海(にっかい)も帯同していた。

安土桃山江戸時代に 織田信長・豊臣秀吉徳川家康の三英傑に仕えたとされる囲碁の棋士・本因坊日海(ほんいんぼうにっかい)=(本因坊算砂/ほんいんぼうさんさ)である。

実はこの僧・日海(にっかい)が、この「信長の首塚伝承」には欠かせない存在だった。

本能寺の変前日、織田信長が茶会を催したのだが、その茶会の流れで信長お気に入りの囲碁の棋士・日海をまだ傍(かたわら)に置いていたのだ。


織田信長(おだのぶなが)については第三巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第三巻をお読み下さい。

伝・織田氏関連記事
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★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-11-09 16:47 | Comments(0)  

宣化大王(せんかおおきみ/天皇)

宣化大王(せんかおおきみ/第二十八代天皇)は、継体大王(けいたいおおきみ/天皇)の第二子で、母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)である。

安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)の同母弟であり欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)の異母兄にあたる。

日本書紀」では、諱を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)という。

古事記」では、 和風諡号を建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)といい、「日本書紀」では武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)という。

宣化大王(せんかおおきみ)の皇后は、仁賢大王(にんけんおおきみ/天皇)の皇女・橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)である。

妃には、大河内稚子媛(おおしこうちのわくごひめ)が居る。

宣化大王(せんかおおきみ/天皇)の皇女の内、石姫皇女(いしひめのひめみこ)は異母弟・欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)の皇后・となって居る。

同じく宣化帝の皇女・小石姫皇女(おいしひめのひめみこ)・倉稚綾姫皇女(くらのわかやひめのひめみこ)・日影皇女(ひかげのひめみこ)の三人も欽明大王(きんめいおおきみ)の妃となって居る。


先の安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)が崩御したとき、その子供がなかったために同母弟の宣化大王(せんかおおきみ/天皇)が満六十九歳にして即位した。

在任中の業績としては、筑紫の官家の整備を行い、大伴金村(おおとものかなむら)に命じて新羅(シルラ)に攻められている任那(ミマナ)に援軍を送った。

五百三十六年とされる即位元年に蘇我稲目(そがのいなめ)が大臣となり、子の蘇我馬子(そがのうまこ)以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれる事となる。

高齢での即位と、在位が三年余りと短い為、宣化大王(せんかおおきみ/天皇)にはあまり主立った事績は無い。

また、安閑・宣化朝は父・継体大王(けいたいおおきみ/天皇)死後直ぐに即位した異母弟の欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)と並立していたとの説(辛亥の変仮説)がある。

いずれにせよ、宣化大王(せんかおおきみ)の血統も石姫皇女(いしひめのひめみこ)を通して現在まで受け継がれる事となる。

一説に、飛鳥時代の歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)は宣化大王(せんかおおきみ)の四世孫(玄孫)とも言われる。


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-10-31 03:23 | Comments(0)  

安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)

安閑大王(あんかんおおきみ/第二十七代天皇)は、継体大王(けいたいおおきみ/天皇)の長子である。

母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)と伝えられている。

安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)は、仁賢大王(にんけんおおきみ/天皇)の皇女である春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)を皇后としている。

他に妃を三人持つが、皇子皇女の記述は記紀(古事記・日本書紀)に無い。

この安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)、「日本書紀」では、諱を「勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)別に(まがりのおいねのみこ)とも読む」としている。

古事記」では、和風諡号に広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、「日本書紀」に広国押武金日天皇(読み古事記と同じ)とある。


安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)は、父・継体大王(けいたいおおきみ/天皇)の崩御を受けて六十六歳で即位するも、わずか四年で崩御した。

「安閑記」に、安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)の治世の出来事として、関東から九州までの屯倉(みやけ)の大量設置と、四十一箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部(いぬかいべ)の設置が記されている。

なお、「日本書紀」によれば、「百済本記」から引用された所伝で、五百三十一年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去した」と言う記述がある。

この事から、継体大王(けいたいおおきみ/天皇)の死後、安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)・宣化大王(せんかおおきみ/天皇)の朝廷と欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)の朝廷が並立し、二朝間で内乱があったのではないかとする「辛亥の変説」もある。

後世、神仏習合の教説で安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)を蔵王権現と同一視されたため、明治時代の神仏分離以降に、従来蔵王権現を祭神としていた神社で安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)を祭神とし直したところが多い。


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-10-30 13:00 | Comments(0)  

上古天皇(かみふるてんのう/かみのみなすめらみこと)一覧

初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

この「上古天皇」は、「かみふるてんのう/かみのみなすめらみこと」と読むのだが、この「上古天皇(かみふるてんのう)」は「神降(かみふ)る=天孫降臨」とも読め、古事記日本書紀編纂意図が伺われる。

神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)

皇統初期・欠史八代(けっしはちだい)
(第二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇)から第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までが、欠史八代)

崇神大王(すじんおおきみ/第十代天皇)

垂仁大王(すいにんおおきみ/第十一代天皇)

景行大王(けいこうおおきみ/第十二代天皇)と日本武尊(やまとたけるのみこと)

成務大王(せいむおおきみ/第十三代天皇)

仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/第十四代天皇)

応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)

仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)

履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)

反正大王(はんぜいおおきみ/第十八代天皇)

允恭大王(いんぎょうおおきみ/第十九代天皇)

安康大王(あんこうおおきみ/第二十代天皇)

雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一代天皇)

清寧大王(せいねいおおきみ/第二十二代天皇)

顕宗大王(けんぞうおおきみ/第二十三代天皇)

仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)

武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。


神武王朝四代に関しては、参考小論【神武王朝四代と葛城御門(かつらぎみかど)】を参照下さい。

五代・孝昭大王に関しては、参考小論【欠史八代(けっしはちだい)と香殖稲(かえしね/根を反す)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-09-20 10:30 | Comments(0)  

顕宗大王(けんぞうおおきみ/天皇)

顕宗大王(けんぞうおおきみ/第二十三代天皇)は、「記(古事記)紀(日本書記)」・「播磨国風土記」に伝えられる大王(おおきみ)である。

顕宗大王(けんぞうおおきみ)は、「記・紀」及び「播磨国風土記」に弘計天皇(をけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)と伝えられる第二十三代大王(おおきみ)である。

「古事記」に於いては、袁祁王(をけのおおきみ)・袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと)、「播磨国風土記」には袁奚王(おけのみこ)とも伝えられる。


顕宗大王(けんぞうおおきみ)は、数奇な運命を辿って大王(おおきみ/天皇)に即位した。

安康三年十月一日父・市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)が雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/天皇)に殺されると、兄の億計王(おけのみこ、後の仁賢大王)と共に逃亡して身を隠した。

兄弟は丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。

兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。

清寧二年十一月、弟・弘計王(をけのおおきみ)自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。

子がなかった清寧大王(せいねいおおきみ/天皇)はこれを喜んで迎えを遣わし、翌・清寧三年に二王を宮中に迎え入れて、兄王・億計(おけ)を皇太子に、弟・弘計(をけ)を皇子とした。

清寧五年一月十六日に清寧が崩御した後、皇太子の億計(おけ)は身分を明かした大功を理由として弟の弘計(をけ)に皇位(王位)を譲ろうとするも、弘計(をけ)はこれを拒否する。

兄弟互いが譲り在った為に皇位の相譲が続き、その間は履中大王(りちゅうおおきみ/天皇)の皇女・飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が執政した。

結果的に兄の説得に折れる形で顕宗元年元旦、弘計(をけ)が顕宗大王(けんぞうおおきみ)として即位する。

引き続き兄・億計(おけ)が皇太子を務めたが、大王(天皇)の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。

顕宗大王(けんぞうおおきみ)は、罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走り意祁命にその陵の破壊を命じることもあった。

しかし、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。

顕宗三年四月二十五日、顕宗大王(けんぞうおおきみ)は崩御する。

「古事記」に三十八歳(但し治世八年と計算が合わない)、「一代要記」では四十八歳とある。

「日本書紀」に皇子女の記載なし、「古事記」にも「子無かりき」とある。

なお「古事記」には、顕宗大王(けんぞうおおきみ)が即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、これを夜襲して誅殺したという話もある。


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-09-20 09:28 | Comments(0)