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藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)

藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)とは、右大臣藤原不比等(ふじわらのふひと)の次男・藤原房前(ふじわらのふささき)を祖とする家系で、藤原房前(ふじわらのふささき)の邸宅が兄の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)の邸宅よりも北に位置した事がこの名の由来である。

従って藤原不比等(ふじわらのふひと)の長男・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)を祖とする家系は、藤原南家(ふじわらなんけ)と言う事に成る。

天武天皇(てんむてんのう/第四十代)没後に、藤原四家(ふじわらしけ)・藤原四兄弟の父・藤原不比等(ふじわらのふひと)が天武帝后妃から即位(践祚・せんそ)した持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の引きで右大臣まで昇った。

その右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、藤原房前(ふじわらのふささき)、藤原宇合(ふじわらのうまかい)、藤原麻呂(ふじわらのまろ)が、時の権力者・長屋王(ながやのおう)を自殺に追い込んで権力奪取に成功、藤原四兄弟が独占気味に政権を運営する。

その藤原四兄弟が夫々に家を興し、智麻呂(むちまろ)が藤原・南家 、房前(ふささき)が藤原・北家、宇合(うまかい)が藤原・式家、麻呂(まろ)が藤原・京家と称されて藤原四家の祖と成った。

藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)は藤原四家の中では最も遅い時期に興隆したが、その結果として政争の矢面に立つ事から逃れ藤原四家の中では最も根を拡げる事になる。

藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)の祖・藤原房前(ふじわらのふささき)は元正帝朝で他の兄弟に先んじて参議に昇進すると、後に祖父鎌足以来の内臣となり、元正天皇(げんしょうてんのう)の側近として長屋王(ながやのおう)と政権を争った。

聖武帝朝になると、七百二十九年(神亀六年)の長屋王の変(ながやのおうのへん)により南家・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が政権を掌握し、藤原四子政権で北家・藤原房前(ふじわらのふささき)も中心人物として政権を主導したが、七百三十七年(天平九年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに四人とも病没してしまう。

その後、藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)は、奈良時代後期~平安時代初期にかけて光仁帝朝で房前(ふささき)の子である藤原永手(ふじわらのながて)と藤原魚名(ふじわらのうおな)が左大臣となるが、永手(ながて)の嫡男・家依(いえより)は早逝し、魚名(おな)は氷上川継の乱に連座して失脚した事もあり、南家と式家に押されがちの状態にあった。

しかし平城朝以後、八百七年(大同ニ年)の伊予親王の変で南家が、さらに八百十年(弘仁元年)の薬子の変で式家の勢力が衰えると、嵯峨天皇の信任を得た藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が急速に台頭し他家を圧倒するようになる。

さらに、冬嗣(ふゆつぐ)が文徳天皇(もんとくてんのう)、そして冬嗣(ふゆつぐ)の子・良房(よしふさ)が清和天皇(せいわてんのう/清和源氏の始祖)、そしてその養子(甥)・基経(もとつね)が朱雀天皇(すざくてんのう)と村上天皇(むらかみてんのう)の、それぞれの外祖父と成って北家嫡流が皇統三代に渡り外戚の地位を保ち続けた事が、同家の優位を確固たるものにした。

この経緯が以後の、「北家嫡流 = 藤氏長者 = 摂政関白」と言う図式を決定づける事になり、この藤原北家系による「摂関政治」が後の藤原道長・頼通父子の時代に全盛を極める事となる。

その後、藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)の子孫は五摂家に別れたが、公家の最高家格は引き続きこの五家が独占した為、他の藤原姓の堂上各家もほとんどが北家の後裔である。

尚、この堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)と言う格式であるが、天皇の御殿である清涼殿(平安京の内裏における殿舎)の南廂・殿上間に昇殿出来る資格が世襲された公家の家格の事で、殿上人(てんじょうびと/うえびと)とも呼ばれる。

また、藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)の派生氏族は公家ばかりではなく、武家の道兼流・宇都宮氏・小田氏、長家流・那須氏、勧修寺流・上杉氏、魚名山蔭流・伊達氏利仁流斎藤氏加藤氏、秀郷流・奥州藤原氏・藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・小野崎氏など、主に関東・北陸・東北に勢力基盤をもった多くの氏族(武家)が藤原北家の末裔と称した。

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by mmcjiyodan | 2010-03-20 00:27 | Comments(0)  

藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)

天武天皇(てんむてんのう/第四十代)没後に、藤原四家(ふじわらしけ)・藤原四兄弟の父・藤原不比等(ふじわらのふひと)が天武帝后妃から即位(践祚・せんそ)した持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の引きで右大臣まで昇った。

その右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、藤原房前(ふじわらのふささき)、藤原宇合(ふじわらのうまかい)、藤原麻呂(ふじわらのまろ)が、時の権力者・長屋王(ながやのおう)を自殺に追い込んで権力奪取に成功、藤原四兄弟が独占気味に政権を運営する。

その藤原四兄弟が夫々に家を興し、武智麻呂(むちまろ)が藤原・南家 、房前(ふささき)が藤原・北家、宇合(うまかい)が藤原・式家、麻呂(まろ)が藤原・京家と称されて藤原四家の祖と成った。

藤原南家(ふじわらなんけ)とは、右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の長男・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)を祖とする家系で、武智麻呂(むちまろ)の邸宅が弟の藤原房前(ふじわらのふささき)の邸宅よりも南に位置した事がこの名の由来である。

藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)の祖・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)は北家流の藤原房前(ふじわらのふささき)とともに、元正帝朝から聖武帝朝にかけて長屋王(ながやのおう)と政権を争った。

七百二十九年(神亀六年)の長屋王の変により武智麻呂(むちまろ)は政権を掌握し、他の兄弟たちと共に聖武帝朝で政権(藤原四子政権)を主導したが、八年後の七百三十七年(天平九年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。

武智麻呂(むちまろ)には四人の息子があり、藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)は孝謙帝朝~称徳帝朝にかけて、長男・藤原豊成(ふじわらのとよなり/右大臣)と次男・藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ/大師)が続いて大臣となった。

特に藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ/後に恵美押勝)は淳仁天皇を擁立すると、息子三人(真先・訓儒麻呂・朝狩)を含む親子四人を公卿(参議)とするなど前代未聞の権力を独占したが、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱により失脚した。

次男・藤原仲麻呂の一族は滅んだものの、その後も藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)は桓武帝朝に於いて、武智麻呂(むちまろ)の長男・右大臣・藤原豊成(ふじわらのとよなり)の子・継縄(つぐただ)と、三男・乙麻呂(おとまろ)の子・是公(これきみ)が続いて右大臣となり、南家流は有力公家の勢力を維持した。

所が、八百七年(大同二年)の伊予親王の変(でっち上げの粛清)により、藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)、藤原雄友(是公の子:大納言)・藤原乙叡(継縄の子:中納言)が失脚し、中央貴族としての南家流は衰退した。

しかし、藤原乙麻呂(右大臣・藤原豊成・三男)の系統で平安中期に武人として頭角を顕した藤原為憲(ふじわらのためのり)の子孫は各地に広がり、工藤氏、伊藤氏、伊東氏、二階堂氏、相良氏、吉川氏天野氏と言った平安末期から鎌倉期に頭角を現す藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)各氏の祖となった。

また平安中期以後は、藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)に押され政治的に衰退する中、南家流(なんけりゅう)武智麻呂の四男・巨勢麻呂の子孫が中央貴族として生き残り、多くの学者公家を輩出した。

代表的な所で、平安の院政期に院近臣として勢威を得た藤原信西(ふじわらのしんぜい/通憲・みちのり)はその代表である。

また、後白河法皇の近臣で後に順徳天皇の外祖父となった藤原範季(ふじわらののりすえ)の子孫からは堂上家である高倉家(南家流)を輩出している。

尚、この堂上家(とうしょうけ、どうじょうけ)と言う格式であるが、天皇の御殿である清涼殿(平安京の内裏における殿舎)の南廂・殿上間に昇殿出来る資格が世襲された公家の家格の事で、殿上人(てんじょうびと/うえびと)とも呼ばれる。

鎌足系流藤原氏は、平安期までは本姓の藤原を称したが、その後の鎌倉時代以降なると姓の藤原ではなく家名(苗字に相当)である近衛、鷹司、九条、二条、一条などを名乗る公家と成り、公式文書以外では藤原姓は名乗らない形で家名をつなげて行く。

藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-03-19 00:43 | Comments(0)  

吉川氏(きっかわうじ)

毛利両川の一方を担った安芸国の国人領主の一門・吉川氏は藤原鎌足(ふじわらかまたり)に発し、藤原不比等(ふじわらのふひと)の長男・藤原南家・武智麻呂(むちまろ)の第四子・乙麻呂(おとまろ)の系統に連なる言わば藤姓一門の家系である。

藤原維清(ふじわらこれきよ)が駿河国入江庄(いりえのしょう/静岡市清水区)に住して入江氏を称し、その入江氏からさらに分かれたのが吉川一族である。

吉川姓を称したのは、鎌足(かまたり)より十八代目の吉川経義(きっかわつねよし)で、駿河国有度郡・吉河邑(きっかわむら)に住した事に拠り吉川を称する。

鎌倉期に梶原景時の変で都に向かう梶原景時とその一党を狐ヶ崎(静岡市清水区)で討ったのは、経義(つねよし)の子で吉川友兼(きっかわともかね)である。

吉川友兼(きっかわともかね)はこの狐ヶ崎で討ち死にするが梶原景時一党を討ち取り、残された吉川一族はこの功によって吉川氏は播磨国揖保郡・福井庄の地頭職に補せられる。

その後、吉川友兼(きっかわともかね)の孫・吉川経光(きっかわつねみつ)が、「承久の乱」の折に京都・宇治橋の戦いにて戦功を挙げ、その功により安芸大朝本荘の地頭に任じられ芸州に足掛かりを得た。

吉川氏は本領の駿河国吉河荘、播磨国福井荘、安芸国大朝荘、石見国津淵荘の地頭職を兼ねていたが、吉川経光(きっかわつねみつ)の代まで駿河国吉河荘を本地としていた。

やがてその子・吉川経高(きっかわつねたか)が安芸へ下向し、居館を大朝新庄に移し安芸大朝本荘が吉川の本地となる。

また、吉川経高(きっかわつねたか)の弟・経盛(つねもり)が播磨領、経茂(つねしげ)は石見領、経時(つねとき)は駿河領を相続し、吉川氏は各地に分流する事になる。

その石見領を継いだ吉川経茂(つねしげ)の吉川氏が、吉川経基(きっかわつねもと)の代に応仁の乱や戦国乱世の初期に活躍、石見から安芸にかけて勢力を広げ、吉川国経(きっかわくにつね)の代に娘・妙玖(みょうきゅう)を毛利元就(もうりもとなり)の正室に嫁して毛利家と縁を持つ。

その毛利元就(もうりもとなり)と妙玖(みょうきゅう)が為した子が隆元、元春、隆景、五龍局らで、隆元が毛利を継ぎ、元春が母の実家・吉川家に養子に入り、隆景が小早川家に養子に入って毛利両川体制が成立する事と成った。

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by mmcjiyodan | 2010-03-18 01:34 | Comments(0)  

国司と解由状(げゆじょう)

賀茂氏の血を継ぐ陰陽寮の陰陽助、勘解由小路家(かでのこうじけ)の由来は、勘解由使(かげゆし)と言う官職である。

坂上田村麻呂を使い、本当の意味で日本列島の大半を征服した大王、桓武天皇(第五十代)は、新王統の創始を強く意識し、積極的な政治・行政改革を展開した。

中でも帝の支配威を国内に周(あまねく)拡げる為に、弛緩しつつあった地方行政の再構築に取り組んだ為、その遂行手段として誕生したのが勘解由使(かげゆし)である。

その勘解由使(かげゆし)の役目を多く賜っていたのが賀茂氏で、賀茂氏の当主が陰陽寮の陰陽助(おんみょうすけ)として貴族に列した事から、勘解由(かでの)の名は官職名から公家の呼称となり、勘解由小路家(かでのこうじけ)と言う名跡になった。

桓武天皇(第五十代)の支配威強化を目指した支配体制再構築の行政改革は地方に及び、国司の交代事務引継ぎが難題と成って利権紛争が頻発した。

前任国司やその親族、家臣が在地領主化して定住した為に新任で赴任して来る者との間には、権限と既得権益の争いが発生する。

その結果、地方行政を監査・監督する勘解由使の職が新設される事と成った。

律令制下で、国司の交代事務引継ぎが問題なく行われた証として、後任国司から前任国司へ交付されたものが解由状(げゆじょう)である。

受領(ずりょう)による国司交替時の利権紛争を抑制する目的で、監査したのが勘解由使(かげゆし)だった。

受領(ずりょう)と言う呼称の起源であるが、行政官の長(受領/ずりょう・国司)の国司交替の際に、後任の国司が適正な事務引継を受けた事を証明する「解由状(げゆじょう)」と言う文書(受け取り証明)を前任の国司へ発給する定めと成っていた。

その制度から、国司交替で赴任して来て実際に解由状(げゆじょう)をもって現地の権限を受領する国司を「受領(ずりょう)」と呼ぶようになった。

その官位を簡単に言うと、中央から赴任して来た行政官の長(受領/ずりょう・国司)は守(かみ)、及び権守(ごんのかみ)であるが、上野国、常陸国、上総国などの親王が任国する地方は次官の介(すけ)、権介(ごんのすけ)がその任にあたった。

これらの様々な肩書きが在りながら、入国後の現地での権限がほぼ同じである為に、その交替方法を採って「国司行政官」を便宜上一括して「受領(ずりょう)」と呼んだのである。

これらの行政官、守(かみ)、及び権守(ごんのかみ)及び介(すけ)、権介(ごんのすけ)は官位が四位~五位どまりの下級貴族であったが、この制度は任命された国司に対して租税収取や軍事などの権限を大幅に委譲すると言うものである。

中央へ確実に租税を上納する代わりに、自由かつ強力に国内を支配する権利を得た為にその権限は強く、その権限を背景に蓄財を行いそのまま任国に土着して解任後もその勢力をたもったまま地方豪族に収まるものが出て来た。

国司交替によって地方に土着した元国司の豪族と新任の国司の間でその権限委譲が円滑に行く為の物が「解由状(げゆじょう)」であるが、当然ながら前任者の既得権益を後任者が簡単には譲り受けられず抗争に発展する事も多かった。

また、円滑に権限委譲が行なわれてもその後の租税収取などの立場が、勢力と財力を蓄え土着した元国司豪族と入れ替わる為、紛争を起こす火種になっていた。

この解由状による受領(ずりょう)を観察する役目の行政監査官が「陰陽助(陰陽寮次官)」勘解由小路(かでのこうじ・賀茂)家の「勘解由使(かげゆし)」である。

つまり勘解由使(かげゆし)は、国司の不正を監視・摘発する為に設けられた令に規定のない令外の官(特別な役職)で、日本の平安期に於いて「地方行政」を監査監督する為に設置され、地方行政監査官を担当した。

令に規定のない「令外の官」と言う事は「情況に応じた権限が発揮できる」と言う事で、平安初期、地方行政を監査・監督する為に設置され、その後、監査の対象は内官の監視へと拡大した。

いずれにしても、明らかに勘解由使(かげゆし)は「監査官」と言う言わば摘発官であり工作員である。

さながら米国のFBIと言うより「CIA」と言う所か?

勘解由使は平安末期頃まで、「監査機関としての統合任務を負った機能を担い続けた」と考えられている。

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by mmcjiyodan | 2010-03-17 00:24 | Comments(0)  

吉備真備(きびのまきび)

右大臣にまで昇った吉備真備(きびのまきび)は、地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では吉備真備と菅原道真(すがわらみちざね)のみである。

真備(まきび)は、吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族として備中国・下道郡(後の岡山県吉備郡真備町、現在の倉敷市真備町)に下道氏を名乗る右衛士少尉(うえじふしょうい)・下道圀勝(しもつみちのくにかつ)の子として生まれ下道真備(しもつみちのまきび)を名乗る。

奈良時代(ならじだい)の七百十六年、下道真備(しもつみちのまきび)は二十二歳の時に遣唐使の遣唐留学生となり、翌年の七百十七年(養老元年)に入唐した。

唐では儒学のほか、天文学や音楽、兵学などを学び、下道真備(しもつみちのまきび)の在唐は十八年に及び、約二十年後の次に遣って来た七三五年(天平七年)の遣唐使に随い帰国する。

帰路で下道真備(しもつみちのまきび)は種子島に漂着するが、七百三十五年(天平七年)の帰朝時に多くの典籍を携えて帰国した。

帰朝後、真備(まきび)は聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)光明皇后(こうみょうこうごう/藤原光明子)の寵愛を得て七百三十七年(天平九年)に従五位に列せられ、翌七百三十八年(天平十年)に橘諸兄(たちばなのもろえ)右大臣に任ぜられて政権を握ると、同時に帰国した僧・玄昉(げんぼう)とともに重用され、真備(まきび)は右衛士督(うえじとく)の役職を兼ねた。

七百四十年には、真備(まきび)と玄昉僧上(げんぼうそうじょう)を除く事を名目に大宰府で藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ/藤原式家・藤原宇合の長男)が反乱を起こしている。

下道真備(しもつみちのまきび)は、七百四十一年に東宮学士として皇太子・阿倍内親王(後の孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)に「漢書」や「礼記」を教授した。

真備(まきび)が、初入唐した翌年の七百十八年(養老二年)に誕生した阿倍内親王(後の孝謙大王・称徳大王)とは二十一歳の年齢差があり、この阿倍内親王への教授の時既に下道真備(しもつみちのまきび)は四十七歳に成っていた。

その二年後の七百四十三年(天平十五年)には、真備(まきび)は従四位下・春宮大夫兼皇太子学士、七百四十六年(天平十八年)には吉備朝臣(きびのあそみ)の姓を賜り、翌七百四十七年に右京大夫に転じて、吉備真備(きびのまきび)は七百四十九年(天平勝宝元年)には従四位上に昇った時には五十五歳になっていた。

孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)即位後の七百五十年には、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が専権し、孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)派の真備(まきび)は、筑前守、肥前守に左遷されたが七百五十一年、五十七歳の時に遣唐副使となり翌年には再び入唐し、その唐の地で留学中の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ/唐で科挙に合格・唐朝諸官を歴任して高官に登った)と再会する。

再入唐から一年後の七百五十三年には、吉備真備(きびのまきび)は帰路で屋久島に漂着するが、鑑真(がんじん/鑑真和上)を伴って無事に帰国している。

七百五十四年(天平勝宝六年)に、真備(まきび)は大宰少弐に昇任、七百五十六年に新羅(しらぎ/シルラ)に対する防衛のため筑前に怡土城を築き、七百五十八年に大宰府で唐帝国での安禄山の乱に備えるよう勅を受け、翌七百五十九年(天平宝字三年)に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。

その後、七百六十四年(天平宝字八年)に吉備真備(きびのまきび)は造東大寺長官に任ぜられ東大寺造営に取り掛かるが、大宰府拠り帰京した時には七十歳になっていた。

その年、藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を起こした際には、吉備真備(きびのまきび)は従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げ、翌七百六十五年には勲二等を授けられた。

吉備真備(きびのまきび)は、淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)を追放した称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)の引きで中央に返り咲く。

七百六十六年(天平神護二年)、称徳天皇(しょうとくてんのう/孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の下で真備(まきび)は中納言となり、藤原真楯の薨逝で大納言となった後、右大臣に昇進して左大臣の藤原永手(ふじわらの ながて・藤原房前の次男)とともに政治を執った。

七百七十年(宝亀元年)、称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)が崩じた際には女官・吉備由利(真備とは兄妹)を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(光仁天皇/第四十九代)の立太子を実現した。

光仁天皇(こうにんてんのう/第四十九代)の即位後、吉備真備(きびのまきび)は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇(こうにんてんのう/第四十九代)は兼職の中衛大将のみの解任を許し右大臣の職は慰留した。

七百七十一年に、真備(まきび)は再び辞職を願い出て許されたが以後の生活については何も伝わっておらず、七百七十五年(宝亀六年)に八十一歳の長寿を全うした。

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藤原四家(ふじわらしけ)・藤原四兄弟】に飛ぶ。
橘諸兄(たちばなのもろえ)の乱】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2010-03-16 00:27 | Comments(0)  

藤原四家(ふじわらしけ)・藤原四兄弟

通説では、「藤原朝臣(ふじわらのあそみ)」の姓は、死を目前にした中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)から与えられたもので、鎌足の子である不比等(ふひと)がその姓を引き継ぎ、以後、藤原不比等(ふじわらのふひと)の流が「藤原朝臣と認められた」とされる。

しかし、この時に天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)から与えられた藤原の姓は鎌足(かまたり)一代のものであり、後に改めて「鎌足の遺族に藤原朝臣の姓が与えられた」とする説もある。

この説の根拠は、鎌足(かまたり)の死後、疑惑の皇子・大海人皇子(おおあまのみこ)が挙兵して天智大王(てんちおおきみ・天皇)の継嗣・大友皇子(おおとものみこ)と天下を分ける内乱・壬申の乱と成ったその時、中臣氏(なかとみうじ)を率いた右大臣・中臣金(なかとみのかね)が、壬申の乱で敗北した大友皇子方について処刑された為に、乱とは無関係の不比等(ふひと)ら鎌足流も一時衰亡の危機を迎えた事を挙げている。

天武天皇(てんむてんのう/第四十代)に拠る壬申の乱平定の後、六百八十四年(天武帝十三年)に八色の姓(やくさのかばね)が定められた際に、朝臣(あそみ)を与えられた五十二氏の中に「藤原」は登場せず、鎌足(かまたり)の嫡男である不比等(ふひと)を含めた鎌足(かまたり)の一族は「中臣連(なかとみのむらじ/後に朝臣・あそみ)」と名乗っていた。

その翌年(天武十四年)になって、鎌足の遺族に対して改めて「藤原朝臣(ふじわらのあそみ)」が与えられ、「日本書紀」に鎌足(かまたり)没後最初に「藤原」が登場する。

そして天武天皇(てんむてんのう/第四十代)没後に、藤原四家(ふじわらしけ)・藤原四兄弟の父・藤原不比等(ふじわらのふひと)は、天武帝后妃から即位(践祚・せんそ)した持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の引きで右大臣まで昇った。

その右大臣・藤原不比等(ふじわらのふひと)の四人の息子、藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)、藤原房前(ふじわらのふささき)、藤原宇合(ふじわらのうまかい)、藤原麻呂(ふじわらのまろ)が、時の権力者・長屋王(ながやのおう)を自殺に追い込んで権力奪取に成功、藤原四兄弟が独占気味に政権を運営する。

その藤原四兄弟が夫々に家を興し、智麻呂(むちまろ)が藤原南家 、房前(ふささき)が藤原北家、宇合(うまかい)が藤原式家、麻呂(まろ)が藤原京家と称されて藤原四家の祖と成った。

尚、藤原房前(ふじわらのふささき)と藤原麻呂(ふじわらのまろ)は、大伴家持が個人的に編纂したとされる万葉集に作品が残る万葉歌人(まんようかじん)でもある。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱】に続く。
藤原不比等(ふじわらのふひと)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-03-15 01:00 | Comments(0)  

藤原不比等(ふじわらのふひと)

藤原不比等(ふじわらのふひと)は、伴に乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)の変事に拠って蘇我入鹿(そがのいるか)を討ち取った功績で、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)から藤原の姓を賜った藤原鎌足(中臣鎌足)の次男とされる。

但し不比等(ふひと)は、「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」、「尊卑分脈」などの史料では天智大王(てんちおおきみ/天皇)の「御落胤」と書かれていて、その出自の真相に付いては謎である。

実は中臣家(なかとみけ)に於いて、次男の不比等(ふひと)以外の鎌足の子は鎌足の元の姓である中臣姓とされ、「神祇官として祭祀のみを担当する」と分けられて居る事から、或いは不比等(ふひと)が天智大王(てんちおおきみ/天皇)の「御落胤」は本当かも知れない。

不比等(ふひと)と言う名前は「他に比べる事ができる者がいない程優れている」と言う意味とされる。

大そうな名前をつけたものだが、不比等(ふひと)が中臣氏の中でも一線を隔す立場の人物だったならば、或いはそれを暗示して居るのかも知れない。

つまり藤原氏の実質的な家祖は、藤原不比等(ふじわらのふひと)ではないだろうか?

大化の改新から二十五年、父・藤原鎌足(中臣鎌足)は、藤原不比等(ふじわらのふひと)が十一歳の時に死去し、翌年には天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)も崩御する。

天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)が崩御して一年後、天智天皇の皇子・大友皇子が弘文天皇(こうぶんてんのう/第三十九代追認皇位)として即位(?・明治三年追認)または即位寸前に、天智天皇・弟(?)の大海人皇子(おおあまのみこ)の反乱「壬申(じんしん)の乱」が起きて合戦となり、大海人皇子(おおあまのみこ)の勝利、弘文天皇(後世追認天皇)の自害で乱は幕を閉じる。

不比等(ふひと)が任官前の数え十三歳の時にこの「壬申の乱」が起きたが、まだ若かった為にいずれの陣営にも与す事無くその変事を過ごしている。

しかしこの時に、同族とされる中臣氏の有力者・中臣金(なかとみのかね/鎌足の従兄弟)を始めとする一族の大半は天智天皇の継嗣・大友皇子方に付いて大海皇子と戦った為、弘文(こうぶん)派として処罰され、中臣(藤原)氏は朝廷の中枢から一掃された。

後ろ盾を持たない不比等(ふひと)は「下級官人からの立身を余儀なくされた」と見られるが、天武天皇(てんむてんのう/大海人皇子)の崩御後、妻で在った天智大王(てんちおおきみ/天皇)の娘・持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の御世に成って引き上げられる。

ここで藤原不比等(ふじわらのふひと)が持統大王(じとうおおきみ/第四十一代女帝)に重用されたには、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の「御落胤説」が事実なら不比等(ふひと)は持統女帝とは異腹の姉弟になり、その格別な信頼に辻褄が合う。

藤原不比等(ふじわらのふひと)は、持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の念願である孫・軽皇子(草壁皇子の息子/後の文武天皇)の擁立に動きその後見として政治の表舞台に出て来る。

また、不比等(ふひと)が後室(後添え)にした橘三千代(たちばなのみちよ)は、始めは美努王(みぬおう・みのおう)に嫁して葛城王(後の橘諸兄/たちばなのもろえ)・佐為王・牟漏女王を生み、美努王が大宰帥として筑紫に赴任した後、藤原不比等(ふじわらのふひと)の後妻となり光明皇后(こうみょうこうごう)(藤原光明子)を為した女性である。

宮中に仕え、軽皇子(後の文武天皇)の乳母を務めた橘三千代(たちばなのみちよ)を後室(後添え)に迎えた不比等(ふひと)は、皇室との関係を深めて文武大王(もんむおおきみ/天皇??)に娘・宮子を嫁がせ首皇子(おびとのみこ/聖武天皇)を産ませている。

尚、橘三千代(たちばなのみちよ)と不比等(ふひと)の間の娘である光明子を聖武大王(しょうむおおきみ/天皇)に嫁がせたが、光明子は不比等(ふひと)の死後に息子達・藤原四兄弟の力によって光明皇后となり初の人臣皇后を世に送り出した。

藤原四家(ふじわらしけ)・藤原四兄弟】に続く。

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by mmcjiyodan | 2010-03-14 01:52 | Comments(0)  

橘諸兄(たちばなのもろえ)の乱

橘諸兄(たちばなのもろえ)は、元の名前を葛城王(葛木王・かつらぎのおう/おおきみ・皇族)と称し、敏達大王(びたつおおきみ/天皇)の後裔で大宰帥・美努王(みぬのおう/皇族)の子であった。

橘諸兄(たちばなのもろえ)が国政の担当を始めたその頃、旧勢力である藤原氏の一人藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が、諸兄(もろえ)が登用した吉備真備(きびのまきび)玄昉僧正(げんぼうそうじょう)の罷免を名目に九州大宰府で反乱を起こしている。

これを諸兄(もろえ)は大野東人(おおののあずまびと)を大将軍とする朝廷軍に鎮圧させ、この時は実力者の地位を保っている。

しかし聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)阿倍内親王に譲位して孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)の時代に入ると、光明皇后(こうみょうこうごう)の後ろ盾で藤原仲麻呂(恵美押勝)の発言力が増して圧力が増して行く。

三年前に従五位下に進んでいた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、また皇太子・阿倍内親王ともこの時は良好な関係にあったとされ、藤原四兄弟が相次いで死去した四年後の奈良時代(ならじだい)の七百四十一年に民部卿、更にその二年後には参議にと順調に昇任している。

七百四十九年(天平勝宝元年)聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が譲位して阿倍内親王が孝謙大王(こうけんおおきみ/第四十六代女帝)として即位すると、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は大納言に昇進する。

次いで、光明皇后の為に設けられた紫微中台の令(長官)を兼ね、更に中務卿と中衛大将も兼ねるなど叔母・光明皇后と従兄妹・孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)と権勢を競うようになった。

お定まりの権力争いだが、この権力争いは七百五十六年(天平勝宝八年)に成ると、七百五十五年(天平勝宝七年)に「諸兄(もろえ)が朝廷を誹謗した」との密告があった。

諸兄(もろえ)は聖武上皇(しょうむじょうこう)の病気に際して「酒の席で不敬の言があった」と讒言され、橘諸兄(たちばなのもろえ)は辞職を申し出て以後隠居し、翌年には失意のうちに死去し争いは決着した。

つまりこの政権抗争は大きな武力行使には到らず、「乱」と言うよりは変事であるが、政治が混乱した点で「橘諸兄(たちばなのもろえ)の乱」と呼ばれたのかも知れない。

橘氏の由来と橘諸兄(たちばなのもろえ)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2010-03-13 02:37 | Comments(0)  

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ/後に恵美押勝・えみのおしかつ/に改名)は奈良時代の公卿で藤原不比等の孫にあたり、不比等の長男で藤原四兄弟の一人・南家流・藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)が父である。

奈良時代(ならじだい)の七百三十七年(天平九年)、疫病(天然痘)の流行によって父の藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)を含む藤原四兄弟が相次いで亡くなり、続いて舎人親王(とねりのしんのう)を初めとして多くの政府高官が死亡して議政官がほぼ全滅し、出仕出来る公卿は従三位左大弁橘諸兄(たちばなもろえ)と従三位大蔵卿・鈴鹿王(すずかのおう・皇族)のみとなった。

そこで政権体制を整える為、急遽この年に諸兄(もろえ)を次期大臣の資格を有する大納言に、鈴鹿王(すずかのおう・皇族)を知太政官事(太政大臣と同格で皇族である事のみが任用条件)に任命する。

翌年には、橘諸兄(たちばなのもろえ)は正三位・右大臣に任命されて一躍朝廷の中心的地位に出世する事になり、これ以降の国政は、事実上橘諸兄(たちばなのもろえ)が担当し、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)を補佐する事になる。

藤原氏の勢力は大きく後退し、代わって橘諸兄(たちばなのもろえ)が台頭して国政を担うようになった。

しかし聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が阿倍内親王に譲位して孝謙大王(こうけんおおきみ/第四十六代女帝)の時代に入ると、光明皇后(こうみょうこうごう)の後ろ盾で藤原仲麻呂(恵美押勝)の発言力が増して圧力が増して行く。

三年前に従五位下に進んでいた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、仲麻呂は叔母にあたる光明皇后の信任が厚く、また皇太子阿倍内親王ともこの時は良好な関係にあったとされ、政権を担っていた藤原四家(ふじわらしけ)・藤原四兄弟が相次いで死去した四年後の七百四十一年に民部卿、更にその二年後には参議にと順調に昇任している。

七百四十九年(天平勝宝元年)聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が譲位して阿倍内親王が孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)として即位すると、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は大納言に昇進する。

次いで、光明皇后の為に設けられた紫微中台の令(長官)を兼ね、更に中務卿と中衛大将も兼ねるなど叔母・光明皇后と従兄妹・孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)と権勢を競うようになった。

お定まりの権力争いだが、この権力争いは七百五十六年(天平勝宝八年)に成ると、七百五十五年(天平勝宝七年)に「諸兄(もろえ)が朝廷を誹謗した」との密告があった。

諸兄(もろえ)は聖武上皇(しょうむじょうこう)の病気に際して「酒の席で不敬の言があった」と讒言され、橘諸兄(たちばなのもろえ)は辞職を申し出て以後隠居し、翌年には失意のうちに死去し争いは決着した。

聖武上皇(太上天皇)が崩御しこの頃、遺言により天武大王(てんむおおきみ)の孫・道祖王(ふなどおう)が立太子されたが、道祖王(ふなどおう)は喪中の不徳な行動が問題視されて廃太子される。

道祖王(ふなどおう)に代わって、藤原仲麻呂の早世した長男・真従の未亡人(粟田諸姉)を妃とする大炊王(おおいおう・後の淳仁天皇/じゅんにんてんのう)が立太子され、仲麻呂は紫微内相(大臣に准じる)に進む。

橘諸兄(たちばなのもろえ)の死後、同年に息子・橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が謀反(橘奈良麻呂の乱)を起こし獄死している。

孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)は、阿倍内親王(あべのないしんのう)時代に立太子した為に結婚はできず、子も無かった。

七百五十八年(天平宝字二年)に、孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)は在位九年間で退位し、藤原仲麻呂が後見する大炊王(おおいのおう・おおいのおうきみ/皇族)が即位して淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)となる。

上皇になった孝謙上皇は、代替わりの改元(代始改元)を拒み舎人親王(とねりしんのう/淳仁の父)への尊号献上にも抵抗するが、最終的には光明皇太后の強い要請により実現するなど淳仁大王(じゅんにんおおきみ/天皇)との軋轢を繰り返した。

淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)の後見として権力を握った藤原仲麻呂は、中華帝国・唐の制度様式を真似た制度を導入し、半島の国・新羅の討伐を目論むなど横暴な権力を行使する。

孝謙上皇と淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)との軋轢が続く中、七百六十年(天平宝字四年)に光明皇太后が死去した為、孝謙上皇の権力が再浮上する。

しかし翌年に孝謙上皇は病に伏せ、看病に当たった弓削氏の僧・道鏡を寵愛するようになり、それを批判した淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)と対立する。

大王(おおきみ/天皇)や上皇(太上天皇)と実力者の重臣の間は、互いに必要とする時だけ成り立つ危うい関係である。

この対立が引き金となり、七百六十二年(天平宝字六年)に孝謙上皇は平城京に帰還し、出家して尼になる。
孝謙上皇は尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)から天皇としての権限を取り上げる為「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言する。

孝謙上皇(こうけんじょうこう)・弓削道鏡と淳仁天皇・藤原仲麻呂との対立は深まり、危機感を抱いた仲麻呂は七百六十四年(天平宝字八年)に都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、更成る軍事力の掌握を企てる。

だが、藤原仲麻呂謀反との密告もあり淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)の保持する御璽・駅鈴を奪われるなど孝謙上皇に先手を打たれて、仲麻呂は平城京を脱出する。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)は、子・藤原辛加知(ふじわらのしかち)が国司を勤める越前国に入り再起を図るが官軍に阻まれて失敗し敗走する。

敗走した仲麻呂は、近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北、敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟を出して逃れようとするが官兵・石村石楯(いわむらのいわたて)に捕らえられて斬首された。

藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)】に続く。
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by mmcjiyodan | 2010-03-12 00:28 | Comments(0)  

光仁天皇(こうにんてんのう)

称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十六代女帝)の後を継いだ白壁王(しらかべのおう・光仁天皇/こうにんてんのう/第四十九代天皇)は、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の第七皇子・施基親王(志貴皇子)の第六子である。

白壁王(しらかべのおう)が八歳の時に父・施基親王(志貴皇子)が死亡し、後ろ盾を失った為に叙任が遅く、初叙(従四位下)は二十九歳に成ってからだった。

しかしその叙任から七年後、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の皇女・井上内親王を妃とした事から昇進を速め、結婚十五年後に従三位に叙せられ、その三年後の七百六十二年(天平宝字六年)に中納言に任ぜられる。

その後起こった藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱鎮圧に功績を挙げて称徳天皇(しょうとくてんのう・女帝)の信任を得、七百六十六年(天平神護二年)に大納言に昇進する。

この飛鳥時代、朝廷では皇位をめぐって陰謀が渦巻いていた。

僅かでも皇位に色気を見せれば、命を狙われるか野望を抱く豪族に祭り上げられる。

度重なる政変で多くの親王・王が粛清されて行く中、白壁王(しらかべのおう)は専ら酒を飲んで日々を過ごす事で凡庸を装い、陰謀に巻き込まれず難を逃れ生き残った。

そんな寝たふりをしていた白壁王(しらかべのおう)に転機が訪れる。

七百七十年(神護景雲四年)、先帝・称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十六代女帝)が崩御すると、天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の嫡流にあたる皇族がいなかった為、称徳天皇の遺宣(遺言)に基づいて白壁王(しらかべのおう)の立太子が行われた。

白壁王(しらかべのおう)は光仁天皇(こうにんてんのう/第四十九代)として即位、即位後は井上内親王(天武系・聖武天皇の第一皇女)を皇后とし、皇后との長男・他戸親王(おさべしんのう/聖武天皇の外孫)を皇太子とするが、二年後の七百七十二年(宝亀三年)井上内親王を呪詛による大逆を図ったとして罪し皇后を廃し皇太子の他戸親王も廃した。

その翌年、またも井上内親王が光仁天皇(こうにんてんのう/第四十九代天皇)の同母姉難波内親王を呪ったとして幽閉され、連座して王に落とされた他戸親王もともに幽閉されてやがて二人とも変死する。

この変事に拠り天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の皇統は完全に絶え、光仁天皇(こうにんてんのう)は翌七百七十三年(宝亀四年)に側室・高野新笠(たかののにいがさ)から生まれた山部親王(やまべしんのう)を立てて皇太子とした。

この変事の背景には山部親王(やまべしんのう)とそれを擁立する「太政大臣・藤原百川(ふじわらのももかわ)らの陰謀が在った」と目され、その山部親王(やまべしんのう)こそが後の歴代最強天皇となる桓武天皇(かんむてんのう)である。

桓武天皇(かんむてんのう)】に続く。
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