人気ブログランキング |

<   2010年 04月 ( 30 )   > この月の画像一覧

 

桃太郎伝説の誤解と真実

ご承知の桃太郎鬼退治伝説には、誤解と真実が存在する。

何が誤解かと言うと、この古代史・桃太郎伝説解明の最初の一歩に「思い込み」と言う大きな間違いが存在するからである。

後日談は勝者には如何にでも脚色出来る訳で、敗者は討たれて当然の「鬼(悪人)」と表現されるが、これは大和朝廷の「覇権主義を隠す為の創作多」と解するが妥当である。

元々桃太郎伝説は、夫々(それぞれ)に国主(くにぬし)を頂いた広域倭国内の小国家群の夫々が、大国主(おおくにぬし・大王/おおきみ)が統治する大和王権へと統一に向かう途中の出来事を伝承されたものである。

伝承に拠ると、崇神大王(すじんおおきみ/第十代天皇・実存不明)の時代(紀元前五十年前後)、大和朝廷の支配を固める為に日本各地に「四道将軍」と言う軍勢が送られた。

これは、「わが教えに従わない者は兵をもって討て」と言う大王(おおきみ/天皇)の詔(みことのり/命令)が在ったからで、つまり大王(おおきみ)を祀らわぬ(祭・奉/マツラワヌ)者は、当時まだ各地に居たのである。

大王(おおきみ/天皇)は、北陸道(方面)には大彦命(おおひこのみこと)、東海道(方面)に武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、丹波道(方面)に丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)、そして西海道(方面)に彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)を将軍として送った。

西海道(方面)・吉備地方で当時朝廷に叛(そむ)いていたのは吉備冠者(きびのかんじゃ・温羅/うら)で、吉備高原の南端・眼下に総社平野・瀬戸内海を見下ろす標高四百メートルの要衝に、朝鮮式山城と同じ役割を持つ神籠石(こうごいし)式の古代の城「鬼ノ城(きのぎ・朝廷側の命名と想われる)」を築いていた。

「鬼ノ城縁起」に拠ると、温羅(うら)と言う名前の異国の鬼神が吉備に飛来して来て「新山(にいやま/総社市奥坂)に住み着いた」とあり、その温羅(うら)は朝鮮半島・百済(ペクチョ/くだら)の王子だと伝えられている。

吉備冠者(温羅/うら)伝承に関しては、瀬戸内海を中心に中国地方・吉備国から四国地方・屋島周辺まで広い範囲に分布しているから、その地域に「一定の勢力を有していた」と推測できる。

征討将軍・彦五十狭芹彦吉命ひこいさせりひこのみこと)はこの吉備冠者(温羅/うら)と戦い、吉備を平定した為に吉備津彦命(きびつひこのみこと)と名乗った。

つまり確りした広域法治国家が存在して悪人を討った訳ではなく、吉備冠者(温羅/うら)は反乱軍でも賊軍でも無く言わば大和王権とは別の勢力だったのではないだろうか?

この吉備国・吉備冠者(きびのかんじゃ・温羅/うら)討伐平定が、「桃太郎の鬼退治伝説として語り伝えられた」と考えられるのである。

そしてこの鬼退治伝説(桃太郎伝説)話にも、別の見方をすれば捏造(ねつぞう)疑惑が存在する。

温羅(うら)伝説については、「第十代・崇神天皇(すじんてんのう・紀元前二十九年)~第十一代・垂仁天皇(すいにんてんのう・九十年代)の頃に起こった」とされる討伐事件を凡そ八百年から八百五十年も経った九百二十三年(延長元年)に書かれた「備中一品吉備津彦明神縁起」が元である。

九百二十三年(延長元年)頃と言うと、朝廷が坂東(関東)の本格的経営に着手を始め桓武天皇の玄孫(五代目の子孫)・村岡良文(むらおかよしふみ・平良文)が東国に下り相模の国村岡郷渡内村に館を構えた頃の事である。

当然ながら、蝦夷族(エミシ族)の痕跡を消し部族の統合同化を進めたい状況下に在った時代に「備中一品吉備津彦明神縁起」は書かれている。

従って、温羅(うら)が本当に朝鮮半島・百済(ペクチョ/くだら)の王子だったかどうかも定かではない。

本来、当時の鬼は蝦夷族(エミシ族)の抵抗(レジスタンス)勢力を指す事が一般的だったから、吉備津彦命(きびつひこのみこと)の鬼退治伝説(桃太郎伝説)は、蝦夷族(エミシ族)勢力の鎮圧だった可能性も否定出来ない。

つまり八百五十年後に、被征服民・蝦夷族(エミシ族)の存在を消去する意図を持って温羅(うら)の百済(ペクチョ/くだら)王子説を都合良くでっち上げる事も出来るのである。

詳しくは【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。

因幡(いなば)の白兎(うさぎ)伝説と大国主の命(おおくにぬしのみこと)】に続く。
桃太郎の鬼退治伝説】に飛ぶ。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

関連記事
鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)】に飛ぶ。
日本人の祖先は何処から来たのか?】に飛ぶ。
ネイティブジャパニーズ・縄文人(蝦夷族)の秘密】に飛ぶ。
蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)は日本史から抹殺された】に飛ぶ。
広域倭国論】に飛ぶ。
日本語のルーツと安倍氏】に飛ぶ。
賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)】に飛ぶ。
阿弖流為(アテルイ)】に飛ぶ。
坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)】に飛ぶ。
俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)】に飛ぶ。
平安群盗と原初の武士達(自衛武力)】に飛ぶ。
源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語】に飛ぶ。
豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実】に飛ぶ。
奥州・藤原家(清原家)・(一)源氏と安倍氏】に飛ぶ。
安倍貞任(さだとう)】に飛ぶ。
安倍宗任(むねとう)】に飛ぶ。
切捨て御免のルーツ】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

by mmcjiyodan | 2010-04-20 00:36 | Comments(0)  

藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)

藤原北家・良房流一族が、代々この摂関政治(せっかんせいじ)を世襲する足掛かりを築いたのが、藤原良房(ふじわらのよしふさ)の父・追贈太政大臣・藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ/右大臣・藤原内麻呂の子)である。

冬嗣(ふゆつぐ)の立身のきっかけは、二十一歳の時に賀美能親王(かみののしんのう/後の嵯峨天皇)の春宮大進(しゅんぐうだいじん・だいしん/皇太子の家政一般役・序列三位)を就任し信頼を得た事で、後に序列二位の春宮亮(とうぐうのすけ/春宮坊の次官)に昇進している。

因(ちな)みに、皇太子の事や住居を東宮(とうぐう)と呼ぶのは天皇の御所の東側に在ったからで、春宮と書いて「とうぐう」と読むのは東が「春」の方位だからである。

帝御所(天皇)・東宮御所(皇太子)・中宮御所(皇后)には、それぞれの住居身辺を警備する為に交代で宿直(とのい)をする役目が存在した。

春宮大進(しゅんぐうだいじん・だいしん)や春宮亮(とうぐうのすけ)にも宿直(とのい)と言う職務が在り、宿直(とのい)は宮中や役所に泊まり込んで夜間の警備をする事、または夜に貴人の傍(そば)に控えて相手をする事でもあり、気心が通じなくては勤まらない。

皇統を継ぐ春宮(しゅんぐう/とうぐう)の主な仕事は子創りであり、冬嗣(ふゆつぐ)が春宮大進(しゅんぐうだいじん・だいしん)の職に就いた時、賀美能親王(かみののしんのう)は二十歳(はたち)とお盛んな時であるから、一歳年上の冬嗣(ふゆつぐ)が、その良き相談相手として信を得た事は想像出来る。

その賀美能親王(かみののしんのう)が、二十三歳で五十二代・嵯峨天皇(さがてんのう)として即位し、冬嗣(ふゆつぐ)は即位の日に正五位下、翌日には従四位下に越階昇叙する。

この次期天皇や次期藩主に息子を側近として付けるのは古典的な方法だが、付けられる方の選択肢は狭いから数少ない中から信じるに足る者を選ばねばならない。

つまり嵯峨天皇(さがてんのう)にとって藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)は最も信頼出来る側近であり、叙任や朝廷人事に天皇の個人的な意向が反映されている点で至極人間臭い人事だったのである。

右大臣・藤原内麻呂の子・冬嗣(ふゆつぐ)は時の天皇・嵯峨(五十二代・桓武朝流第三代)の一歳年上の側近として信頼が厚く、嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置すると、初代の蔵人頭(くろうどのかみ)となった。

藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)が、八百十年に嵯峨天皇(さがてんのう/五十二代)の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任した事に家勢の上昇が始まった。

その後の冬嗣(ふゆつぐ)は嵯峨天皇の下で急速に昇進し、既に十年近く前に参議となっていた藤原式家の藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)をも追い越し大納言として台閣(たいかく/政策決定機関・議政官)の長と成り、最終的には父・内麻呂より一階級上の左大臣まで昇りつめ、北家隆盛の基礎を築いた。

藤原時平(ふじわらのときひら)】に続く。

関連記事
律令制に於ける官職】に飛ぶ。
律令制に於ける位階】に飛ぶ。
藤原北家流(ふじわらほっけりゅう)】に飛ぶ。
摂関政治(せっかんせいじ)】に飛ぶ。
皇居内裏女官(こうきょだいりにょかん)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

by mmcjiyodan | 2010-04-19 00:08 | Comments(0)  

比企尼(ひきのあま)

乳母(うば)と言えば、日本史上最強の乳母(うば)は、鎌倉幕府を成立させた源頼朝(みなもとよりとも)の乳母(うば)・比企尼(ひきのあま)をその第一に数えてもけして間違いではない。

千百四十七年(久安三年)、清和天皇(せいわてんのう/五十六代)を祖とし河内国を本拠地とした源頼信(みなもとよりのぶ)、源頼義(みなもとよりよし)源義家(みなもとよしいえ)らが河内源氏として東国に勢力を築いた。

その河内源氏の棟梁・源義朝(みなもとよしとも)は、公家で熱田神宮大宮司・藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘の由良御前(ゆらごぜん)との間に三男が生まれ、幼名を鬼武者(おにむしゃ)と名付けられる。

鬼武者(おにむしゃ)は、武蔵国比企郡の代官で、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)・藤原北家・魚名流の流れを汲む一族である比企掃部允(ひきかもんのじょう)の妻・比企尼(ひきのあま)が乳母(うば)として育てていた。

比企尼(ひきのあま)が鬼武者(おにむしゃ)の乳母(うば)と成った経緯は不明だが、夫・比企掃部允(ひきかもんのじょう)が藤原秀郷流の下級貴族だった事から、北家と南家の違いはあるが熱田神宮大宮司・藤原家からの依頼だったのかも知れない。

清和源氏の棟梁・源義朝(みなもとよしとも)は保元の乱平清盛と共に後白河天皇に従って勝利し、乱後は左馬頭(さまのかみ/馬寮の武官長)に任じられる。

保元の乱当時、鬼武者(おにむしゃ)と名付けられた義朝と由良御前との子は九歳だった。

やがて鬼武者(おにむしゃ)は元服して源頼朝(みなもとよりとも)を名乗り、三男で在りながら清和源氏の棟梁・源義朝(みなもとよしとも)の継嗣として官に登用され、宮廷武官の道を歩み始める。

平安末期の千百五十八年(保元三年)、頼朝十一歳の時には後白河天皇准母として皇后宮となった統子内親王(むねこないしんのう)に仕え皇后宮権少進(こうごうごんしょうじょう)、翌年(平治元年)には統子内親王が院号宣下を受け、女院上西門院となると上西門院蔵人(じょうさいもんいんくらんど)に補される。

所が、その年(千百五十九年)に平治の乱(へいじのらん)が勃発し、後白河院政派の主将として平治の乱に参戦した父・源義朝が敗死し、初陣で参戦して居た嫡男・頼朝は死罪に処せられる所を池禅尼(いけのぜんに)の助命嘆願で救われ、伊豆国に流罪となる。

「吾妻鏡」に拠ると、頼朝の乳母で在った比企尼(ひきのあま)は武蔵国比企郡の代官となった夫の掃部允(かもんのじょう)と共に京から領地へ下り、千百八十年(治承四年)の秋まで二十年間の永きに渡り伊豆国流人・頼朝に仕送りを続けた。

比企掃部允(ひきかもんのじょう)と比企尼(ひきのあま)の間には男子は無く娘が三人居た。

嫡女・丹後内侍(たんごのないし)は惟宗広言(これむねのひろこと)と密かに通じて「島津忠久(しまづ ただひさ)を産んだ(異説あり)」とされ、その後坂東(関東)へ下って安達盛長(あだちもりなが)に再嫁し、盛長は頼朝の流人時代からの側近となる。

次女・河越尼は武蔵国の有力豪族・河越重頼(かわごえよりしげ)の室となり、三女は伊豆国の有力豪族・伊東祐親(いとうすけちか)の嫡男・伊東祐清(いとうすけきよ)に嫁ぎ、死別した後・源氏門葉である平賀義信(ひらがよしのぶ)の室となっている。

比企尼(ひきのあま)は武蔵国比企郡の所領から頼朝に米を送り続け、三人の娘婿に頼朝への奉仕を命じていて長女・丹後内侍(たんごのないし)と次女・河越尼の娘はそれぞれ頼朝の実弟・源範頼(みなもとのりより)、異母弟・源義経(みなもとよしつね)に嫁いでいる。

夫の掃部允(かもんのじょう)は頼朝の旗揚げ前に死去したが男子に恵まれなかった為、比企氏の家督は甥の比企能員(ひきよしかず)を尼の猶子(養子)として迎える事で跡を継がせ、後に能員が頼朝の嫡男・頼家(よりいえ/二代将軍)の乳母父となって権勢を握ったのは、この比企尼(ひきのあま)の存在に於けるが大である。

比企尼(ひきのあま)の動向や死没年は不明だが、頼朝と北条政子の夫妻が尼の屋敷を訪れて納涼や観菊の宴会を催すなど、頼朝の尼への思慕は最後まで厚く、比企尼(ひきのあま)の存在は「鎌倉幕府成立過程に於いて大きく影響した」と考えられるのである。

尚、掃部允(かもんのじょう)は、律令制に於ける宮内省に属する令外官の官職名で、比企掃部允(ひきかもんのじょう)の本名は比企尼(ひきのあま)同様に不明である。

比企能員(ひきよしかず)】に続く。

関連記事
源頼朝(みなもとよりとも)】に飛ぶ。
鎌倉御家人(かまくらごけにん)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

by mmcjiyodan | 2010-04-18 01:35 | Comments(0)  

平将門(たいらのまさかど)の乱・詳細その(二)

平将門(たいらのまさかど)の乱・詳細その(一)に戻る。

その後も平将門(たいらのまさかど)を狙った動きは続き、将門は、上総介・平良兼(かずさのすけ・たいらのよしかね)に騙されて一時は滅ぼされそうになるが、何とか勢力を盛り返した。

その勢いで平国香(たいらのよしまさ)の子「平貞盛(たいらのさだもり)」を戦いで破るが、討ち取るに到らず取り逃がしている。

これらの争いは、所領をめぐる同族の私闘で有る。

この関東の平一族同士の理不尽な土地争いの揉め事を朝廷がうまく裁けず、現地の事務方役人・藤原氏も手が付けられず、放置状態にして将門を怒らせてしまった。

将門にとって不幸だった事に、そうした指導力欠如の朝廷とのいざこざは、将門の所ばかりでなかったので、関東の揉め事に将門の出番が増え、将門の名声が上がって行って坂東(関東)武士の盟主に成ってしまった。

この事例はどこかで聞いた様な話で、今でも現場を確認しない役人の怠慢によるトラブルは、後を絶たない。

そこに決定的な事件が起きた。

常陸国の住人・藤原玄明(ふじわらのはるあき)が国司(国府長官)・藤原維幾(ふじわらのこれちか)と対立、維幾(これちか)が玄明(はるあき)を追捕するを将門が庇護し争いに介入する。

九百三十九年(天慶二年)十一月、平将門(たいらのまさかど)は、軍兵を集めて常陸国府に追捕撤回を求めるも常陸国府はこれを拒否し宣戦布告をされるを持って終(つ)いに挙兵する。

つまりその争いの介入の過程で引くに引けない国司との合戦が起き、朝臣(朝廷の役人)藤原維幾(ふじわらのこれちか)を捕らえてしまったのだ。

事は都から遠く離れた関東で起きている殺気立った揉め事で、事は迅速を要し悠長に朝廷の裁定など待っては居られない。

平将門(たいらのまさかど)は反乱を起こして中央派遣の朝廷役人を捕縛または追放し、勝手に役人を独自に任命して関八州に配置、関東の地を一時中央政権から独立させた。

相馬の小次郎・平将門は、平貞盛(後の伊勢平氏)、押領使・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)ら討伐軍とは「猿島郡の北山」で迎え撃つ事に成った。

尚、この時の押領使・藤原秀郷は藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)で、子孫が遠近江から駿河、伊豆などに土着し、後に工藤氏伊東氏・入江氏らを輩出、さらに工藤氏から天野氏や狩野氏、入江氏から吉川氏(きっかわうじ)などが別れ出て源頼朝の平家追討の旗揚げに呼応している。

旧暦二月の半ば、僅(わず)かに春先で在ったが関東の沼地はまだ寒い。

この時期は都合が悪い事に農繁期で、その上に関八州の押さえの為に手勢の兵を散らしていて、甲冑に身を固めた将門の軍勢は思いの外に整わなかったが仕方が無い。

それに平貞盛は以前何度か戦をまみえて、取り逃がしてはいるが破っているから恐れるに足りない自負が将門にある。

両軍対峙して見たが、平貞盛ら討伐軍との互いの兵力が拮抗して、そう簡単に決着が尽くような状況に無く、北山の戦は混戦の様相を呈していた。

北山の地で平将門(たいらのまさかど)勢と平貞盛勢は激突して各所で切り結び槍を突き、怒号が乱れ飛んでいた。

所がその混戦の中、思わぬ事態が発生した。

混乱の中、有ろう事か白羽根の矢が一本、シュルシュルと味方の陣営から飛来して、将門の額を貫いた。

「バタッ」と将門が仰向けに倒れた。

慌てた味方が駆け寄って将門を抱き起こしたが、既に息絶えていた。

矢は額に刺さったままの壮絶な死で、即死だった。

この一瞬の出来事で、正式に将門討伐を組織した朝廷の征東軍が到着しない内に反乱軍の盟主が討たれ、戦いは終っていた。

関東で起きた将門の乱は、あっけなく平定されたのである。

尚、この平将門の乱を鎮圧した事に成った平貞盛(たいらのさだもり)は坂東(関東)の地に居られなくなって伊勢国に移住し、その子孫から平清盛(たいらのきよもり)が出て平家(へいけ)となり、平清盛(たいらのきよもり)は天皇の外祖父にまでなって権勢を振るった。

平将門(たいらのまさかど)の乱・詳細その(一)】に戻る。
平将門(たいらのまさかど)】に戻る。

関連記事
名田経営(みょうでんけいえい)と武士の台頭】に飛ぶ。
藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

by mmcjiyodan | 2010-04-17 00:41 | Comments(0)  

平将門(たいらのまさかど)の乱・詳細その(一)

平将門(たいらのまさかど)が受け継いだ義父・平良将(たいらのよしまさ)の平氏流は、坂東(関東)の平氏としては名門の一族だった。

平安群盗鎮圧の為に鎮守府軍として坂東(関東)に派遣された原初の武士達(自衛武力)の中に桓武平氏流(かんむへいしりゅう)の平良将(たいらのよしまさ)が居た。

平良将(たいらのよしまさ)は下総国を本拠とした桓武平氏流の中心人物で、歴史的には村岡良文(むらおかよしふみ/平良文)とともに武家平氏の実質的な祖の一人と目されている。

桓武天皇(かんむてんのう)の皇子・葛原親王(かずらわらしんのう)の三男・高見王(たかみおう)の子・高望王(たかもちおう)が、宇多天皇(うだてんのう)の勅命により平朝臣(たいらのあそみ)を賜与され臣籍降下し平高望を名乗った。

この平高望(たいらのたかもち)が上総介(国司)に任じられて坂東(関東)に下向した時、三男の平良将(たいらのよしまさ)は、長男・国香、次男・良兼の兄達と伴に父・高望(たかもち)に同行している。

分家した平良将(たいらのよしまさ)は下総国に在って未墾地を開発して私営田を経営、更に鎮守府将軍を勤め家勢を目覚しく発展させる。

しかし平良将(たいらのよしまさ)には男子が無く、同じ関東鎮守府将軍・桓武平氏葛原(かずはら)親王流五代・村岡良文(むらおかよしふみ/平良文)の子を養子とし、平将門(たいらのまさかど)を名乗らせる。

この血統を異とする婿養子・平将門(たいらのまさかど)が、義理の伯父・平国香(たいらのくにか)の欲を誘発させたのかも知れない。

その義父・良将が亡くなって、将門が朝廷に相続の保証と官位を願い出て都にいる二年の間に、伯父の鎮守府将軍・平国香(たいらのくにか)に所領を全て奪われていた事から、この騒動は始まる。

広大な所領を有する平良将(たいらのよしまさ)が亡くなり、家督を継いだ養子の平将門は都に出向いて留守だった。

伯父の平国香(たいらのくにか)にして見れば、所領横領の絶好の機会が訪れた事になる。

この「戦は武士の本分」の原点は勝手に渡来して縄張りを広げて行った氏族の覇権主義に在ったもので、何も武士の本分は格好の良い物ではなく、切り取り強盗の親玉みたいな物である。

さながら坂東(関東)は、力有る者が無法に武力で勢力を拡大する西部開拓史時代のアメリカ西部劇を見るようではないか。

この時代、荘園(領地)経営は大事業で、自分達の虎の子だから開墾や土地の改良から始めて、慈(いつく)しんで育てるものだったから、「一所懸命」の原点で思い入れもひとしおだった。

平将門(たいらのまさかど)は、義父の残した所領を留守中に義理の伯父に横領されていた事になる。

都から帰郷した平将門も、領地を横領されていて驚いた。

所領を横領されれば、義父の代から臣従する一族や家臣団も路頭に迷う。

将門(まさかど)が留守の間、所領から追われて辛酸を舐め耐えて来た者共も多く、本来なら直ぐにでも戦を仕掛け父の所領を取り返すべき所である。

だが、当初相手が伯父の「国香」の事と我慢をし、「さも浅ましき者共よ。」と自重して独自に新田の開墾などしていた。

処が、伯父の平国香の方が後ろめたいから、将門に「何時攻められるか」と不安が募る。

甥・平将門の所領を横領した平国香(たいらのくにか)側からすれば、手に入れた筈の領地の一郭に独立した将門の開墾地が在るのは不安材料で、いつ何時(いつ)将門が力を着けて取り返しに出ないとも限らない。

まぁ、「災いの芽は、早くに摘んでしまおう」と言う発想だった。

結果、将門(まさかど)を倒して「不安を取り除こう」と、伯父の平国香(たいらのくにか)党が嵯峨源氏の源護(みなもとのまもる)と結託し、平将門に襲いかかる。

義理の仲ではあるが、「伯父・平国香(たいらのくにか)」対「甥・平将門(たいらのまさかど)」と言う肉親同士の領地の取り合いに成ったが、この時代さして違和感は無い。

新天地を求めて荒海を越えて来た征服部族である氏族の基本的な感性は、「戦い取る」と言う戦闘的な【左脳域】思考が強いDNAを持ち合わせている。

【左脳域】は、厄介な事に論理・理性の他に原始本能として「闘争本能(戦うか逃げるかの判断)」の部分を受け持っている。

しかも氏族は、長い事「支配地(所領)の取り合い」と言う現実的な世界で生まれ育って来ていた。

そうした環境下では、その権力に対する価値観が【左脳的】に最も重要で、親子・兄弟・叔父甥でさえも争う結果になる。

そもそも当時の氏族の価値観で言えば所領の拡大の最優先が正義で、争う相手が肉親もくそもない。

米国の西部開拓史でもそうだったが、開拓時代は土地と奴隷(日本の場合は俘囚・奴婢)の武力による取り合いが為されている。

開拓時代のお定まりで、日本の氏族(征服部族)も根本が好戦的な部族で、土地と奴婢(ぬひ)の取り合いである。

相手の甥・平将門が父親・平良将(たいらのよしまさ)を亡くし、しかも将門が都に出仕していて留守となれば、これは平国香にとって又と無い絶好の領地横領の好機(チャンス)だった。

この大番役(京都御所守護)などの朝廷出仕で所領を留守にして居る間に、身内に所領を乗っ取られる「大掛かりな空巣話し」は平将門の例に止まらずその後も多発している手口で、後に記述する伊東祐親(いとうすけちか)工藤祐経(くどうすけつね)の「曽我兄弟の仇討ち」に発展したいざこざも有名であり、それらは無数に存在する。

平将門はこれを返り討ちにして国香を討ち取り、事の顛末を朝廷に報告、一族の私闘として罪を許される。

平将門(たいらのまさかど)の乱・詳細その(二)】に続く。

関連記事
臣籍降下】に飛ぶ。
名田経営(みょうでんけいえい)と武士の台頭】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

by mmcjiyodan | 2010-04-16 00:44 | Comments(0)  

権門層(有力貴族・寺社)と荘園(しょうえん/私領・私営田)

十世紀中葉から後期にかけての平安期、特定の家系へ世襲として官職に伴う権限義務を請け負わせる官司請負制が、中央政界でも地方政治でも著しく進展して行った。

この官職の世襲体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育をほどこして家業を担う人材を育成した。

つまり官職の世襲制体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育を施(ほどこ)して家業を担う人材を育成した。

中でも、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱の鎮圧に勲功の在った者の家系は、その勲功者家系が貴族(公家)とは一線を画す正当なる武芸の家系と認識され、その武士の登場も、武芸の家系に軍事警察力を請け負わせる官司請負制の一形態と見なされる事になる。

地方政治に於いて国司へ大幅な行政権を委任する代わりに一定以上の租税進納を義務づける政治形態が進んだ形態で、朝廷の財政は地方からの収入に拠っていた。

この、時行政権が委任された者が、現地赴任した国司の筆頭者であり、受領と呼ばれて大きな権限を背景として富豪層からの徴税に拠って巨富を蓄え、また恣意的な地方政治を展開した。

当然ながら受領は、解由制(げゆせい)や受領考過定など監査制度の制約も受けていたが、それでもこの赴任して来た国司(受領)と郡司・田堵・負名・百姓階層などの在地勢力との間で紛争が生じ、国司苛政上訴(こくしかせいじょうそ)と呼ぶ国司(受領)の苛政・非法を中央政府(太政官)へ訴える行為が頻発した。

また官司請負制に拠る官職の世襲制体制に伴い、この十世紀前期に時代を代表する「荘園(しょうえん)」と呼ぶ権門層(有力貴族・寺社)の私領(私営田)が、従来の租税収取体系が変質した事で次第に拡大形成し、発達して行ったのもこの時期である。

権門層は、私領する荘園を国衙(こくが)に収公されないよう太政官(官省符荘)、民部省や国衙の免許(官省符荘)を獲得し運営して財を蓄え、大きな勢力に育って行った。

律令制に於ける国衙(こくが)は、国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた公領区画範囲を指すが、国衙に勤務する官人・役人(国司)を「国衙(こくが)」と呼んだ例もある。

また、その公領区画範囲を、荘園(しょうえん/私領・私営田)に対して国衙領(こくがりょう/公領)とも呼ぶ。

十世紀後期に登場した花山天皇は、こうした動きに対し権門抑制を目的として荘園整理令などの諸政策を発布し、かなり大規模な改革を志向していたが、反発した摂関家によって数年のうちに花山天皇は退位に追い込まれている。

しかし、その後の摂関政治が必ずしも権門優遇策をとった訳ではなく、摂関政治で最大の栄華を誇った藤原道長の施策にはむしろ抑制的な面も見られる。

摂関政治の最大の課題は、負名体制と受領行政との矛盾への対処、そして権門の荘園整理にどう取り組むかと言う点に在り、その摂関政治による諸課題への取り組みに漸く成果が見られ始めたのが、十一世紀前期~中期にかけての時期である。

この諸課題への取り組み期間、国内税率を一律固定化する公田官物率法が導入されたり、小規模な名田に並行して広く領域的な別名が公認されるようになった。

また、大規模事業の財源として一国単位で一律に課税する一国平均役が成立するなど、社会構造に変革を及ぼすような政策がとられた為、十世紀前期に始まった王朝国家体制は、依り中世的な後期王朝国家形態へ移行して行った。


庄官と荘官は同じ意味で、庄(荘園)で、領主の命を受けて年貢の徴収・上納、治安維持などの任務にあたった者を庄官(荘官)と呼び、荘司と言う呼称もある。

つまり江戸期以前の庄(荘園)経営に於いて「庄屋」は庄官の居宅であり、庄(荘園)領主が地方行政を行う為の役所を兼ねていた。

名田経営(みょうでんけいえい)と武士の台頭】に続く。

関連記事
ネイティブジャパニーズ・縄文人(蝦夷族)の秘密】に飛ぶ。
蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)は日本史から抹殺された】に飛ぶ。
俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)】に飛ぶ。
平安群盗と原初の武士達(自衛武力)】に飛ぶ。
承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱】に飛ぶ。
清少納言(せいしょうなごん)】に飛ぶ。
紫式部(むらさきしきぶ)】に飛ぶ。
律令制に於ける官職】に飛ぶ。
律令制に於ける位階】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

by mmcjiyodan | 2010-04-15 00:17 | Comments(0)  

紫式部(むらさきしきぶ)

清少納言(せいしょうなごん)と対峙するもう一方の平安時代中期の女性作家、歌人として「源氏物語」の作者と考えられている紫式部(むらさきしきぶ)は、藤原北家の出自で、越後守・藤原為時の娘で母は摂津守・藤原為信の女である。

通説では、幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多く、54帖にわたる大作「源氏物語」、宮仕え中の日記「紫式部日記」を著したと伝えられている。

父・藤原為時(ふじわらためとき)は三十歳代に東宮・師貞親王(もろさだしんのう)の読書役を始めとして東宮が花山天皇になると蔵人、律令制における八省の一つ式部丞(しきぶしょう/現在の文部省に近い)の式部大丞(実質的な長官)と出世したが、花山天皇が出家すると失職していまう。

紫式部の式部は、父・藤原為時(ふじわらためとき)の官位・式部大丞(しきぶたいしょう)から採ったようである。

その藤原為時(ふじわらためとき)は不遇な日々を送っていたが、一条天皇に詩を奉じた結果、当時隣国の若狭に宋の商人が渡来して対中華貿易の窓口に成っていた為に漢文の才を持つ為時が選ばれ越前国の受領となり、紫式部は娘時代の約二年を父の任国(越前)で過ごす。

いずれにしても紫式部(むらさきしきぶ)は、清少納言(せいしょうなごん)と同様に国司クラスの貴族社会で暮らして居た女性である事は間違いがない。

九百九十八年(長徳四年)頃、紫式部は親子ほども年の差がある蔵人・山城守・藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚し一女・藤原賢子(ふじわらのかたいこ・けんし/大貳三位)を儲けたが、この結婚生活は長く続かず間もなく夫・宣孝(のぶたか)と死別した。

その後紫式部は、一条天皇の中宮(皇后)・定子の死去の後を継いだ中宮・彰子(藤原道長の長女、後・院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも千十二年(寛弘八年)頃まで「仕え続けた」とされている。

実はこの紫式部、現在でも本名は不明で諸説あり、当時の受領階級の女性一般がそうであるように紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録は存在しない。

その為に、紫式部の生没年についてはさまざまな状況を元に推測したさまざまな説が存在しており、婚姻関係も含めて定説が無い状態である。

清少納言(せいしょうなごん)】に戻る。

関連記事
藤原道長(ふじわらのみちなが)】に飛ぶ。
万葉集(まんようしゅう)・万葉仮名(まんようかな)と大伴家持(おおとものやかもち)

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

by mmcjiyodan | 2010-04-14 01:05 | Comments(0)  

清少納言(せいしょうなごん)

藤原道長(ふじわらのみちなが)の生きた平安期は、朝廷内裏での争そいを他所に平安貴族文化が花開いた次期で、古典文学界に足跡を残す二人の女流作家を排出している。

一人はご存知の「枕草子」を記した清少納言(せいしょうなごん)と言う作家・歌人で、「清」は清原の姓から、「少納言」は親族の「役職名から採った」とされ、「清少納言」は女房名で「本名は清原諾子(なぎこ)」と言う説もあるが不詳とされている。

九百八十一年(天元四年)頃、橘諸兄(たちばなのもろえ)の後裔である橘氏長者・中宮亮(ちゅうぐうしき/皇后事務職)の陸奥守・橘則光(たちばなののりみつ)と結婚し、翌年一子・橘則長(たちばなののりなが)を生むも、武骨な夫と反りが合わずやがて離婚する。

ただ、前夫・則光との交流はここで断絶したわけではなく、一説では離婚五年後の九百九十八年(長徳四年)頃まで交流があり、「妹(いもうと)背(せうと)の仲で宮中公認だった」と伝えられている。

その離婚の後、時期は判然としないが、清少納言(せいしょうなごん)は藤原南家流の摂津守・藤原棟世(ふじわらのむねよ)と再婚し娘・小馬命婦(こうまのみょうぶ/歌人)を儲けいる。

いずれにしても清少納言(せいしょうなごん)は、国司クラスの貴族社会で暮らして居た女性である事は間違いがない。

九百九十三年(正暦四年)、一条天皇の時代に私的な女房として一条天皇中宮(皇后)・定子に仕え、博学で才気煥発な清少納言(せいしょうなごん)は、主君・定子の恩寵を被ったばかりでなく、公卿や殿上人との贈答や機知を賭けた応酬をうまく交わし、宮廷社会に名を残す。

「枕草子」には、「ものはづくし(歌枕などの類聚)」、詩歌秀句、日常の観察、個人の事や人々の噂、記録の性質を持つ回想など、清少納言(せいしょうなごん)が平安の宮廷で過ごした間に興味を持ったもの全てがまとめられている。

中宮(皇后)に仕える清少納言(せいしょうなごん)との親交が諸資料から窺える貴族に、藤原実方、藤原斉信、藤原行成、源宣方、源経房などが在り、特に左中将・藤原実方(ふじわらのさねかた)との贈答が数多く知られ事から恋愛関係が想定される。

千年(長保二年)に一条天皇中宮(皇后)・定子が出産時の不幸で没してしまい清少納言が宮仕えを退いて後、もう一人の女流作家・紫式部が一条天皇中宮(皇后)・彰子(藤原道長の長女)に伺候する。

紫式部(むらさきしきぶ)】に続く。

関連記事
藤原道長(ふじわらのみちなが)】に飛ぶ。
律令制に於ける官職】に飛ぶ。
万葉集(まんようしゅう)・万葉仮名(まんようかな)と大伴家持(おおとものやかもち)

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

by mmcjiyodan | 2010-04-13 01:09 | Comments(0)  

藤原道長(ふじわらのみちなが)(二)

藤原道長(ふじわらのみちなが)(一)】に戻る。

藤原道長(ふじわらのみちなが)は兄・道隆(みちたか)の嫡子・伊周(これちか)との政争に勝って、漸く左大臣として政権を掌握する。

政権を掌握した道長(みちなが)は一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)と為すが、先立の后に定子が居り既に第一皇子・敦康親王らを生み帝の寵も非常に深かったが、道長は定子を皇后宮と号する事で前例が無い一帝二后を強行した。

入内後十年目にして彰子(道長長女)は土御門殿に於いて皇子・敦成親王(あつなりしんのう/のちの後一条天皇)を出産し、翌年にはさらに年子の敦良親王(あつながしんのう/後朱雀天皇)も生まれて道長(みちなが)待望の孫皇子が誕生した。

千十一年(寛弘八年)、病床に臥した一条天皇は冷泉天皇(六十三代)の皇子・東宮・居貞親王(おきさだしんのう /六十七代・三条天皇)に譲位し、剃髪出家した後に崩御する。

実は東宮・居貞親王(おきさだしんのう / いやさだ)は、一条天皇より四歳年上で二十五年と言う長い東宮時代を経て、三十六歳で漸く一条帝の譲りを受けて即位した。

三条天皇(六十七代)は次の東宮(皇太子)に、一条天皇と彰子(道長長女)の間に生まれたまだ四歳の敦成親王(あつなりしんのう)を立て、先帝・一条の践祚(せんそ)に報いている。

道長(みちなが)は、東宮時代の三条天皇に次女・妍子(けんし/きよこ)を入内させていたが、これを三条帝即位翌年に皇后(号は中宮)とした。

三条天皇は道長(みちなが)に関白就任を依頼するが道長はこれを断り、続けて内覧に留任する。

道長(みちなが)は三条天皇とも叔父・甥の関係にあったが、早くに母后・超子を失い成人してから即位した三条天皇と道長の連帯意識は薄く、妍子(けんし/きよこ)が禎子内親王を生んだ事もあり三条天皇は親政を望んだ為に道長(みちなが)と天皇との関係は次第に悪化して行った。

三条天皇には妍子とは別に東宮時代からの女御・Z子(せいし/藤原済時の娘)が第一皇子・敦明親王始め多くの皇子女を生んでおり、三条帝はZ子(せいし)も皇后(号は皇后宮)に立てようとした。

ところがZ子(せいし)の立后儀式の日に道長(みちなが)は妍子(けんし/きよこ)の参内の日として欠席し、諸公卿もこれにおもねって誰も儀式に参列しようとしない事態となった。

その為に、意を決した右大臣・藤原実資(ふじわらのさねすけ)が病身を押して中納言・隆家とともに参内し儀式を取り仕切ったが、寂しい儀式となった。

翌年のZ子(せいし)参内の行賞としてZ子(せいし)の兄の藤原通任を叙任しようとした際に、道長(みちなが)は本来は長年に渡り子(せいし)の後見をしたのは「長兄の藤原為任(ふじわらのためとう)である」として通任を叙位しようとした天皇の姿勢を批判し、最終的に為任を昇進させた。

三条天皇と道長(みちなが)との確執から政務は渋滞し、三条帝は密かに実資(さねすけ)を頼りとして対抗を試みるが、筋を通す実資(さねすけ)も流石に権勢家の道長と正面から対抗できず大勢は道長に有利であった。

千十四年(長和三年)、孤立した三条天皇は失明寸前の眼病に罹り、いよいよ政務に支障が出た事を理由に道長(みちなが)はしばしば譲位を迫る。

外孫の早期即位を図る道長(みちなが)が敦成親王(あつなりしんのう)の即位だけでなく同じ彰子の生んだ敦良親王(あつながしんのう)の東宮までも望んでいるのは明らかで、三条天皇は道長を憎み譲位要求に抵抗し眼病快癒を願い、しきりに諸寺社に加持祈祷を命じた。

しかし道長(みちなが)は、皇統に巣食う鵺(ぬえ)と化して己の野望の為に三条帝を追い詰めて行く。

翌千十五年(長和四年)譲位の圧力に対して天皇は道長に准摂政を宣下して除目を委任し、自らは与らぬ事を詔(みことのり)するが、その翌月に不吉にも新造間もない内裏が炎上する事件が起こる。

この火災を理由に、道長(みちなが)はさらに強く譲位を迫り眼病も全く治らず三条天皇は遂に屈し、自らの第一皇子・敦明親王(あつあきらしんのう)を東宮(次期帝)とする事を条件に敦成親王(あつなりしんのう)への譲位を認めた。

千十六年(長和五年)、終(つ)いに三条天皇は譲位し、東宮・敦成親王(あつなりしんのう)が後一条天皇として即位し、東宮には約束通り、敦明親王(あつあきらしんのう)が立てられる。

道長(みちなが)は摂政の宣下を受け、僅か在位六年で退位した三条上皇は出家して法皇となるも、程なく四十二歳で恨みを残しながら没した。

その長子・敦明親王(あつあきらしんのう)は父の父の不遇な生涯をまざまざと見ていた。

三条法皇の死後、敦明親王(あつあきらしんのう)は道長(みちなが)に無言の圧迫を掛けられ、道長(みちなが)の権勢に恐れを抱いて終(つ)いに自ら東宮を辞退する挙に出る。

道長(みちなが)はそれを喜び、娘の寛子を敦明親王(あつあきらしんのう)嫁させ、さらに親王を准太上天皇として優遇し、冷泉・円融両系の両統迭立に漸く終止符が打たれ、皇位は永く円融天皇の直系に帰す事になった。

藤原道長(ふじわらのみちなが)は従一位太政大臣に任じられ位人臣を極めるが、これは後一条天皇の元服で加冠の役を奉仕する為で、程なくこれを辞し摂政と氏長者を嫡男・頼通に譲り後継体制を固めた。

道長(みちなが)は一応政治から退いた形になるが、その後も摂政となった若い頼通を後見して指図している。

道長は藤原北家の全盛期を築き、摂関政治(せっかんせいじ)の崩壊後も彼の子孫のみが摂関職を代々世襲し、本流から五摂家と九清華のうち三家(花山院・大炊御門・醍醐)を輩出した。

藤原道長(ふじわらのみちなが)(一)】に戻る。

関連記事
摂関政治(せっかんせいじ)】に飛ぶ。
清少納言(せいしょうなごん)】に飛ぶ。
紫式部(むらさきしきぶ)】に飛ぶ。
万葉集(まんようしゅう)・万葉仮名(まんようかな)と大伴家持(おおとものやかもち)

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

by mmcjiyodan | 2010-04-12 02:09 | Comments(0)  

藤原道長(ふじわらのみちなが)(一)

平安中期、九百年代の後半に中央政界で権力を振るったのが、藤原不比等(ふじわらのふひと)の系流の一つで最後に中央での勢力を築いた藤原北家流・九条流の摂政・太政大臣・藤原道長(ふじわらのみちなが)である。

平安中期の藤原北家流を中心とした摂関政治(せっかんせいじ)に於ける熾烈な権力闘争の相手は血を分けた兄弟であり、その時代の藤原家の最高実力者が娘を皇統に嫁す事で女系を介して天皇の外祖父として結び付き、皇統を左右する図式が続いていた。
その中でも日本史上途出して居たのが、執念で後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父となった藤原道長(ふじわらのみちなが)だった。

九百三十五~九年に坂東(関東)一円で起こった平将門の乱や瀬戸内で一円で起こった藤原純友の乱を総称する承平天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱が終わって凡そ三十年余り後、平安時代中期を代表する公家・藤原道長(ふじわらのみちなが)は藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の五男(四男説あり)としこの世に生を受けている。

藤原道長(ふじわらのみちなが)の祖父の藤原師輔(ふじわらのもろすけ)は、藤原北家の藤原忠平(ふじわらのただひら)の次男だったが、村上天皇の治世を右大臣として支えた実力者で、娘の中宮・安子が後の冷泉天皇(六十三代)、円融天皇(六十四代)を生んだ事で外戚として立場を強化した。

この為に師輔(もろすけ)は、藤原忠平(ふじわらのただひら)嫡流である兄の藤原実頼(ふじわらのさねより)の家系・藤原北家流・小野宮流よりも優位に立ち、中央の摂関位を継承する家系となる。
摂政・太政大臣だった兄の藤原実頼(ふじわらのさねより)が死去すると師輔(もろすけ)の長男の藤原伊尹(ふじわらのこれただ/これまさ)が摂政となるが、二年後に急死してしまう。

嫡男・藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の後継を、次男の藤原兼通(ふじわらのかねみち)と三男で道長(みちなが)の父・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が争うが、結局兼通(かねみち)に関白が宣下される。

関白・藤原兼通(ふじわらのかねみち)と弟・兼家(かねいえ)は不仲で、兄・兼通(かねみち)は病に倒れて病死するが、死ぬ寸前に兼家を降格させるなど兼家(かねいえ)は不遇の時期を過ごす事に成る。

関白・藤原兼通(ふじわらのかねみち)の最後の推挙により、後継には小野宮流の藤原実頼(ふじわらのさねより)の次男・藤原頼忠(ふじわらのよりただ)が関白となったが、その頼忠(よりただ)が兼家(かねいえ)を右大臣に引き上げてやり、父・兼家(かねいえ)は漸く不遇の時期を脱した。

九百八十三年(永観二年)、円融天皇(六十四代)は花山天皇(六十五代・冷泉天皇の皇子)に譲位し、東宮(皇太子)には詮子(藤原兼家の次女)の生んだ懐仁親王(かねひとしんのう)が立てられる。

懐仁親王(かねひとしんのう)の早期の即位を望んだ兼家(かねいえ)は、三年後に兼家と三男の道兼が中心となって策謀を仕組み、花山天皇を唆(だま)して内裏(だいり)から連れ出し出家退位させてしまう。

速やかに幼い懐仁親王(かねひとしんのう)が即位(践祚/せんそ)して一条天皇(六十六代)となり、外祖父の兼家(かねいえ)は摂政に任じられ、息子達を急速に昇進させ始める。

父の藤原兼家(ふじわらのかねいえ)が摂政になり権力を握ると道長(みちなが)も従三位に叙し、左京大夫を経て権中納言となるが、道長(みちなが)は五男であり道隆(みちたか)、道兼(みちかね)と言う有力な兄が居た為に、始めはさほど目立たない存在だった。

所が、父・兼家(かねいえ)の死後に摂関となった、その道隆(みちたか)、道兼(みちかね)と言う有力な兄達二人が伝染病により相次いで病没してしまう。

当時、道隆(みちたか)の嫡男・藤原伊周(ふじわらこれちか)は、道長(みちなが)を凌いで内大臣に任じられ父の後継者に擬されていた。

伊周(これちか)は自らが関白たらんと欲し一条天皇の意中も伊周(これちか)に在ったが、道長(みちなが)は自らが摂関になろうとする。

一条天皇の母后・東三条院(詮子)はかねてより弟の道長(みちなが)を愛し、逆に甥の伊周(これちか)を疎んじていた為に道長(みちなが)の登用を強く推したが、天皇が考えを変えないため涙を流して固く請い迫まり、遂に一条天皇も母后に推されるかたちで道長(みちなが)の登用を決めた。

藤原道長(ふじわらのみちなが)(二)】に続く。

関連記事
律令制に於ける官職】に飛ぶ。
律令制に於ける位階】に飛ぶ。
皇居内裏女官(こうきょだいりにょかん)】に飛ぶ。
摂関政治(せっかんせいじ)】に飛ぶ。
清少納言(せいしょうなごん)】に飛ぶ。
紫式部(むらさきしきぶ)】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

by mmcjiyodan | 2010-04-11 01:36 | Comments(0)